薩摩・大隅・日向3国の守護職を兼ねた島津貴久の二男。母は入来院重聡の娘。島津義久の次弟。天文4年(1535)7月23日に生れた。通称は又四郎。初名は忠平、天正13年(1585)頃に義珍(よしたか)と称す。義弘と名乗るのは天正15年(1587)よりである。号は維新。兵庫頭・侍従・少将・参議・従四位下。
将器に優れ、数々の武功譚を残した。その生涯に52度の合戦に臨んだという。
初陣は天文23年(1554)の岩剣城の戦いという。永禄の頃より長兄・義久と共に日向国飫肥の伊東氏攻撃をはじめ、九州一円に兵を動かす。
元亀3年(1572)の日向国木崎原の合戦では、圧倒的多数の兵数を擁する伊東氏を寡兵にて破り、天正5年(1577)12月には日向国から伊東氏を追放。明けて天正6年(1578)には、伊東氏復活を意図して南下してきた大友氏を日向国高城の攻防戦にて破った。
天正9年(1581)8月には肥後国の相良義陽を、天正13年(1585)には阿蘇氏を降伏させて肥後一円を支配下に収め、天正14年(1586)、豊後国に進んで大友氏をほぼ壊滅させ、筑前・豊前を除く九州全域を制圧した。
しかし天正15年(1587)、圧倒的物量をもって侵攻してきた羽柴秀吉の軍勢と戦ったが、兵力の差に抗し得ずに降伏した(九州征伐)。この戦後処理において義弘は大隅一国を安堵され、義久と同格の大名に処された。また、子・久保は日向国諸県郡を安堵されている。
九州征伐に敗れて豊臣政権に臣従したのちは島津氏存続のために忠勤に励んだが、豊臣政権に反感を持つ義久や家臣団との間に摩擦を起こし、その統制に苦慮したことが知られている。
天正20年(=文禄元年:1592)より文禄の役に出陣して小西行長や宇喜多秀家らと共に侵攻、晋州城を陥落させるなどの活躍を見せた。
文禄4年(1595)5月、豊臣政権への反発によって乱れた家中を統制するために召還されて日本に戻り、出兵中の文禄3年(1594)秋から翌年春にかけて行われていた太閤検地による算定の結果、薩摩・大隅・日向諸県郡のうち太閤蔵入地分などを除く55万9千石余が義弘の名義で与えられた。これは、それまで義弘が忠勤を尽くした功績を認め、実質的に島津氏の差配を委ねたものとみることができる。
同年12月、居地を大隅国栗野から帖佐に移す。
慶長2年(1597)4月に再び朝鮮に渡り(慶長の役)、巨済島での海戦、南原城攻略など幾多の武功を挙げた。さらに3年(1598)10月1日、明国の董一元率いる約20万もの大軍を泗川の新城に引きつけて8千の兵で破るという快挙を成し、11月の撤退戦では進路を阻む朝鮮水軍の将・李舜臣を露梁津に破るなど奮戦した。それら戦いの勇猛ぶりから、明軍には「石曼子(シーマンズ)」と呼ばれて恐れられたという。
帰国後の慶長4年(1599)1月、それまでの功績として島津領内に設けられていた太閤蔵入地など5万石の知行を加増された。また同年に剃髪、入道して維新と号している。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、当初は徳川家康に与し、家康らが会津上杉征伐に出征している間の留守居役として、8千の兵で伏見城の守備に当たることになっていた。しかし石田三成らが蜂起し、伏見城将の鳥居元忠は義弘の入城を拒否、義弘は石田三成の勢力圏に取り残された形となり、やむなく西軍に属することとなった。その後は伏見城の攻撃に参加、これを陥落させた。
9月15日の関ヶ原の合戦では、合戦が始まっても一兵も動かすこともなく、西軍諸将からの再三の出馬要請にも応じず、西軍の敗戦が決定的になると「座禅陣」と呼ばれる捨て身の中央突破を敢行、大打撃を受けながらも堺から海路帰国し、向島(桜島)に蟄居した。その後、井伊直政や本多正信による徳川家康への取り成しにより慶長7年(1602)に赦免された。
元和5年(1619)7月21日、大隈国加治木で死去した。85歳。禁制にも関わらず、家臣13名が殉死したという。
老衰も進んだ晩年、老いのために食事を取らせることもままならぬほどになったが、食膳を目の前に据えて、側近の者たちが戦場での鬨の声をあげるとその瞬間に我に返ったように、独力で食事をしたという逸話を残す。
また、優れた武人であると同時に茶の湯・易学・漢学などを嗜んだ文化人でもあった。慶長の役から帰還する際には朝鮮より陶工職人四十余人を連れ帰って磁器の制作にあたらせ、この地の陶磁器文化の発展に大きな影響を与えた。