宇喜多秀家(うきた・ひでいえ) 1572〜1655

豊臣家臣。宇喜多直家 の二男。幼名は八郎。初名は家氏。のちに剃髪して成元・休復・久福と号す。侍従・左中将・参議・権中納言。
天正9年(1581)に父・直家が没すると羽柴秀吉の養子となり、直家の遺領相続を織田信長より許された。
秀吉の寵を受け、秀吉の養女(前田利家の娘・豪姫)を妻に迎え、名も秀吉の一字を与えられて秀家と名乗った。
武将としての資質は優れていたが、秀吉のもとで過保護に育てられたためか家臣団の統制や領国の治政は不得手だったという。
秀吉の備中高松城攻めに協力し、講和後には備中国の東側半分と備前国・美作国、50万石余の領有を認められた。その後、四国九州征伐に従軍して功を顕し、小田原征伐にも従軍。
朝鮮半島に渡っての文禄の役では小早川隆景らと碧蹄館に進んで李如松と戦って破り、この功で文禄3年(1594)に参議から権中納言に昇進した。慶長の役でも征明大将となって活躍、慶長3年(1598)に帰国した。
秀吉の信任も厚く、帰国後には豊臣政権の五大老として勢威を張ったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の役において西軍の謀主に擁され、敗れてのち薩摩国に逃れ、島津氏の庇護を受けた。
慶長8年(1603)島津・前田両氏のとりなしで死罪は免れて駿河国に預けられ、慶長11年(1606)4月より嫡子・孫九郎秀隆ら主従13人と八丈島に配流された。
前田氏より終生仕送りを受け、在島すること約50年の明暦元年(1655)11月20日、八丈島で没した。84歳。