四国征伐

天正10年(1582)6月の本能寺の変での織田信長の死後、その覇道を引き継いだのは羽柴秀吉であった。山崎の合戦明智光秀を破り、天正11年(1583)には同じく織田家の宿老であった柴田勝家を滅ぼし、北陸、中部地方から近畿地方にかけての地域の大半を掌握。秀吉が次に目をつけたのは四国である。
この頃の四国は、長宗我部元親がほぼ制圧していた。
天正10年6月、信長は四国征伐軍の編成を終え、あとは軍勢を送るばかりのところで明智光秀に討たれた。これによって長宗我部氏は息を吹き返したばかりではなく、さらなる勢力の拡大を推進している。同年8月には阿波国の十河存保を攻め(中富川の合戦)、圧迫された存保に救援を求められた秀吉が仙石秀久を派遣すると、この軍勢をも破ったのである(引田の合戦)。
また天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦においては紀伊の根来衆らと共に徳川家康と通じ、秀吉に敵対する姿勢を見せ続けていた。
小牧・長久手の合戦の和議を結んで徳川家康の動きを抑え、天正13年(1585)に紀伊征伐をも果たしたあと、次の標的が四国となることは必定だったのである。

天正13年の紀伊征伐において、元親はすでに秀吉の次なる標的が四国に据えられるであろうことを察知して、和睦の使者として重臣・谷忠澄を送って阿波と讃岐の両国を放棄し、伊予と土佐を確保しようとした。これに対して秀吉は阿波・讃岐・伊予の3ヶ国の割譲を迫った。元親はそれを承服せず、防備を固めたのである。とくに、畿内に近い阿波国を防衛の要として戦力の増強を図ったようである。
そして6月、秀吉の命を受けた軍勢が四国に侵攻を開始した。弟である羽柴秀長を総大将として豊臣秀次宇喜多秀家などの親族衆だけでなく蜂須賀正勝黒田孝高といった与力武将、中国地方の雄である毛利氏にも動員を要請し、総勢11万余人という大軍で阿波・讃岐・伊予の3方面から一斉に攻めはじめたのである。
その陣容は、淡路を経て阿波より羽柴秀長隊・豊臣秀次隊で6万、讃岐からは宇喜多隊・蜂須賀隊・黒田隊で2万3千、毛利勢は3万の軍勢を小早川隆景に率いさせて伊予から上陸した。
この圧倒的な兵力差のまえに讃岐国では高松城・牟礼城、阿波国では木津城など、四国の諸城はつぎつぎと陥落していったが、とくに激戦となったのが伊予国金子山城と阿波国の一宮城での戦いである。
伊予国から上陸した毛利勢の前に、要害の金子山城を守る金子元宅は必死の抵抗を示し、よく防戦したが7月17日に壮烈な討死を遂げて陥落した(金子山城の戦い)。
一方の一宮城も要害を利用して籠城戦を試みたが水の手を断たれ、ついには開城するに至った(一宮城の戦い)。
圧倒的に不利な戦況においても元親は最後まで秀吉に抵抗し続ける気概を示したが、ついには家臣団の説得を受けて秀吉に降ることになったのである。
この四国征伐により、長宗我部氏は阿波・伊予・讃岐の3ヶ国を没収され、土佐一国の領有のみを許されることになった。