長宗我部元親(ちょうそがべ・もとちか) 1539〜1599

長宗我部氏第21代当主。『土佐の出来人』と称される。父は長宗我部国親、母は美濃国斎藤氏。通称は弥三郎。従四位下・宮内少輔・土佐守・少将・土佐侍従。
少年時代の元親は背が高く色白で、内気で人見知りが激しく、周囲からは『姫若子』(姫のような若君)と言われていたという。
初陣も遅く、永禄3年(1560)5月、22歳のときだった。このとき元親は合戦の仕方がわからず、家臣に槍の使い方を聞いたり、「大将は兵の先になって走っていけばいいのか、それとも後についていけばいいのか」といった質問をしていたという。しかしこの合戦中に元親は変貌、それまでのおとなしさからは想像もできないほどの剛勇ぶりを発揮したという(長浜表の合戦)。これにより「智謀勇気兼備」の大将として家臣の信頼を得た。
その直後、父・国親の死去により家督を相続する。
永禄6年(1563)に斎藤利三の女(妹か)を妻とした。
その後は近隣領主の本山茂辰安芸国虎らを攻めて滅ぼし、天正2年(1574)には土佐国司の一条兼定を豊後国に追放、その翌年には土佐一国を平定した。
天正3年(1575)10月頃より明智光秀を介して織田信長と誼を通じ、阿波国をはじめとして四国の各地を攻略、版図を広げた。しかし、その伸張ぶりをこころよく思わない信長と反目するようになり、織田信孝丹羽長秀らによる討伐を受けそうになるが、その直前の天正10年(1582)の本能寺の変で信長が弑されたために窮地を免れた。その後は、同年の中富川の合戦で阿波国三好氏の十河存保を降し、天正11年(1583)には四国のほぼ全域をその手中に収めた。
織田信長の没後、小牧・長久手の合戦では織田信雄徳川家康に、紀伊征伐においては根来衆と通じて、ことごとく羽柴秀吉に敵対する姿勢を見せるが、天正13年(1585)の秀吉の四国征伐に降伏、土佐一国の9万8千石のみを安堵され、浦戸城を居城とした。
天正14年(1586)からの九州征伐において、島津義久に攻められた大友義統の救援を秀吉に命じられ、先陣として仙石秀久・十河存保と共に豊後国に渡って島津勢と合戦に及んだが、12月の戸次川の合戦に破れ、自身は辛くも危機を脱したが、嫡男の信親を失った。元親は落胆のあまり自分も死のうとし、家臣の諫めと愛馬・内記黒のおかげで命を拾ったという。
天正16年(1588)、居城をそれまでの岡豊から大高へと移した。またこの年、継嗣を四男の盛親に定めたが、これに反対する一族や重臣を誅殺し、二男の香川親和を悶死させ、三男の津野親忠を幽閉するなど、信親を失ってのちは人格的に批判が多い。
天正18年(1590)の小田原征伐には水軍を率いて参陣し、19年(1591)に帰国してからは居城を浦戸に移した。また、文禄の役にも出動、帰国後の文禄3年(1594)春には伏見城の工事を分担している。
文禄5年(=慶長元年:1596)9月、領内の浦戸に漂着したイスパニア船サン=フェリペ号の財貨を秀吉に献じて賞される。
また慶長2年(1597)には再び朝鮮に渡り、各地で転戦(慶長の役)。翌年の3月に帰国した。
慶長4年(1599)4月に上洛して病み、5月19日に伏見で没した。61歳。法号は雪渓恕三大禅門院。
元親は武略家であると同時に優れた民政家でもあり、慶長2年(1597)3月には子・盛親と連名で、家臣や農民らの訴訟・刑法を規定した『元親百箇条』の法規を発布している。また仏教や儒学に関心を持ち、和歌・連歌・茶の湯にも深い嗜みを持っていたという。