大友義統(おおとも・よしむね) 1558〜1605

豊後国大友氏第22代当主。大友宗麟の嫡男。母は奈多八幡宮大宮司・奈多鑑基の娘。幼名は長寿丸。通称は五郎。名を吉統とも。左兵衛督。号は宗巌、のち中庵。
天正4年(1576)、父・宗麟より家督を譲られて豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の6ヶ国を領する大友氏の当主となり(天正元年との説もある)、宗麟の後見を受けた。しかし義統は豊後国の府内で国政を執り、宗麟は隠居地の臼杵に在ったため、両者の調整がうまくかみ合わずに二頭体制となり、家臣団の分裂傾向を招くこととなった。
天正6年(1578)の日向国高城、耳川の合戦での敗戦による島津氏の北上、龍造寺氏の筑前・豊前国への西進によって勢力が減衰すると大友領の国人領主は大友氏より離反の動きを見せ、豊後領内でも天正7年(1579)の田原親貫の乱、天正8年(1580)の田北紹鉄の乱に見られるように、大野郡・直入郡を中心とする南郡衆や国東郡の田原氏は義統の政策に対立。重臣らの要請で宗麟の出馬を仰ぎ、国内だけは辛うじて鎮定した。
天正14年(1586)、島津氏の豊後国侵攻を受けて羽柴秀吉に支援を要請すると九州征伐が成されることとなり、秀吉より派遣された軍勢を得て防戦を試みるが大敗、豊後から逃れて豊前国宇佐郡の竜王城に退く(戸次川の合戦)。しかし天正15年(1587)になって到着した九州征伐軍の本隊が島津氏を屈服させて九州を平定すると、秀吉より豊後1国のみを安堵された。
天正16年(1588)頃、秀吉より一字を与えられて吉統と名乗りを改める。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役には第3軍に従軍して渡海しているが、文禄2年(1593)1月、朝鮮の平壌において明軍の来襲を前にした小西行長隊を救援せずに漢城に退去したことから秀吉の怒りを買い、5月には所領の豊後国を没収されるとともに更迭されて毛利輝元に預けられて周防国山口、ついで翌年には佐竹義宣の常陸国水戸に預けられる。この頃に入道して宗巌と号す。
慶長4年(1599)の春頃に徳川家康の尽力によって許され、江戸に居す嫡子・大友義乗の居宅に移る。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、吉弘統幸らの進言を排して西軍に加担し、旧領回復を目論んで豊後国速見郡立石に下着したが、石垣原の合戦黒田孝高に敗れ、戦後処理において出羽国の秋田実季に預けられた。
慶長7年(1602)、秋田氏の転封にともなって常陸国宍戸へと赴き、慶長10年(1605)7月19日に同地で死去、変転の生涯を終えた。48歳。法名は法鐘院中庵宗巌。
宗麟の影響を受けてキリシタンとなり、天正15年4月に洗礼を受けて受洗名をコンスタンチノと称す。しかし、同年6月に秀吉の発した伴天連禁止令を受けて棄教し、信徒を迫害した。