秋田実季(あきた・さねすえ) 1576〜1659

安東愛季の二男。通称は下国安東太郎。秋田城介・従五位下。
細川昭元の娘を室とした。細川昭元の室は織田信長の娘・お犬である。
天正15年(1587)9月に愛季の死で跡を継いだ実季は、由利郡を窺って小野寺義道と、比内地方をめぐっては南部信直と抗争を重ねた。天正年間の末期頃には現在の秋田県北半を制圧して、居城を檜山から湊に移した。
安東氏は陸奥国外ヶ浜の安東庶季(もろすえ)が応永年間に出羽国秋田を領して以来、秋田城介を称し、海の豪族として名を馳せ、蝦夷の蠣崎氏をその傘下に収めて交易を掌握するなどして勢力を築いたが、実季の代に至って中央政権への臣従を余儀なくされた。
天正19年(1591)に羽柴秀吉から秋田郡5万石2千石を安堵され、蔵入地(秀吉の直轄領)2万6千石の支配も命じられた。これと前後して蝦夷の蠣崎(松前)慶広が独立、蝦夷地における勢力基盤を失った。
同年の九戸政実の乱の鎮圧、慶長20年(文禄元年、1592)からの朝鮮派兵、伏見城の築城などに功労があった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、戦後になってから出羽合戦において西軍に与したとの嫌疑をかけられ、慶長7年(1602)5月、佐竹義宣の秋田転封に伴って常陸国宍戸5万石に移封を命ぜられ、父祖伝来の土地を失った。
慶長末期の大坂冬夏の陣にも徳川勢力(東軍)として従軍した。
寛永7年(1630)9月、領内に圧政を布いたとの罪に問われて伊勢国朝熊(あさま)に追放。その後は同地で過ごし、万治2年(1659)11月に没した。
歌道・文筆・茶道にも優れた教養人であったという。
跡を継いだ子の俊季は正保2年(1645)に陸奥国三春5万5千石に転じている。