松前慶広(まつまえ・よしひろ) 1549?〜1616

蝦夷島徳山館主・蠣崎季広の三男。母は箱館館主・河野季通の娘。幼名を天才丸、通称を新三郎といった。民部大輔・志摩守・伊豆守・従五位下。海翁永泉と号す。はじめは蠣崎氏を名乗っていた。
松前氏は、若狭武田氏の流れを汲むと伝わる武田信広(蠣崎信広)に始まる。
康正3年(=長禄元年:1457)のコシャマインの乱鎮定においてその武勇を示した信広は出羽国檜山の安東氏の代官となって松前一円を支配するが、5代目・慶広に至って独立領主となる。
天正10年(1582)に家督を相続。
天正18年(1590)に秋田(安東)実季の了解を得て上京、12月に聚楽第で羽柴秀吉に謁し、民部大輔に任官。
文禄の役に際し、文禄2年(1593)正月には肥前国名護屋へ家臣とアイヌ軍を率いて参陣して「狄(てき)の千島の屋形、遼遠の路を凌ぎ来る」と秀吉を非常に感激させ、志摩守に任ぜられるとともに、蝦夷地の交易独占権を認める朱印状を与えられた。これにより安東氏の配下を脱し、蝦夷島の支配者という地位のお墨付きを得たのである。
時勢を見るに敏で秀吉の没後は徳川家康に接近、慶長4年(1599)には子・忠広と共に家康に謁して蝦夷島図と家譜を上呈し、このときに姓を松前と改めた。
慶長6年(1601)に若狭守に叙任、9年(1604)には蝦夷地交易の黒印制書を受け、無高ながら近世大名として続く松前藩の基礎を築いた。
慶長11年(1606)、領内に福山館を築いて移った。14年(1609)には従五位下・伊豆守に叙任。
元和2年(1616)5月に剃髪し、海翁と号す。同年10月12日に没した。法名は義広院殿海翁永泉大居士。