蠣崎信広(かきざき・のぶひろ) 1431〜1494

はじめ、武田姓を名乗っていた。若狭守を称す。
出自は若狭守護の武田氏一族とする説もあるが、若狭国出身の昆布商人であるともいう。
陸奥国下北半島の田名部の領主・安東政季に仕え、享徳2年(1453)に安藤義季が討死したことで安藤宗家が断絶すると、相原政胤・河野政通と共に政季に安藤宗家を継承するように説得し、翌年8月には政季らと共に蝦夷ヶ島(北海道)の渡島半島に渡り、道南十二館の花沢館主で、政季が上ノ国守護に任じた蠣崎季繁のもとに副館主として寄寓した。
康正3年(=長禄元年:1457)5月にコシャマインの乱が勃発。器量と胆力を買われた信広は総指揮を委ねられ、計略をもってコシャマイン父子を討ち取った。
この武勇に感じ入った季繁に娘(一説には養女で、実父は安東政季とされる)を娶わせられ、嗣子となった。これより蝦夷の館主の指導者的な地位を確固たるものとし、若狭国・蝦夷間の交易船を差配した。蝦夷国の近世大名・松前慶広の祖先である。
明応3年(1494)5月20日に没した。64歳。