安藤一族・潮潟重季の嫡男。津軽安藤氏嫡流・安藤法季(貞季)の曾孫にあたる。母は南部義政の娘。通称を安東太、または安藤太郎。初名は師季で、のちに政季に改める。
安藤氏の嫡流は法季の孫・安藤康季(泰季)が嘉吉3年(1443)に南部氏の攻撃を受けて津軽から蝦夷ヶ島(北海道)の渡島半島に逃れたが、政季の祖父・潮潟道貞(安藤法季の四男)は津軽半島の外ヶ浜の潮潟(後潟)に残っていた。
政季の父・重季は宝徳2年(1450)1月に南部政守に攻められて討死し、政季と母は捕えられたが母の縁で助命され、宇曽利(下北半島)の田名部に知行地を与えられて南部氏麾下として取り立てられた。このときに「安東」を名乗ったとされる。
その3年後の享徳2年(1453)に安藤氏宗家の安藤義季(康季の子)が南部氏に敗れて嗣子のないまま自害したために安藤氏の正統が断絶すると、家臣の武田(蠣崎)信広・相原政胤・河野政通に、安藤宗家の系譜と安藤氏の培ってきた蝦夷との交易権を継承するように説かれ、共に享徳3年(1454)8月に蝦夷ヶ島の渡島半島に渡り、安藤義季の遺臣らを糾合するとともに義季の名跡を継承して惣領の地位に就いた。
茂別館に拠った政季は一族や重臣を道南の12ヶ所に配置し、茂別館を中心とする「下ノ国」、松前大館中心の「松前」、花沢館中心の「上ノ国」の3つの地域に分け、それぞれに守護職を任じて分割統治させ、蝦夷ヶ島における独自の支配体制を固めた。これによってアイヌ社会も安東氏と密接な交わりを持つようになるが、その反面では摩擦も起こり、康正2年(1456)の春には小さな口論から和人とアイヌ民族の対立にまで発展したが、秋には沈静化している。しかしこの対立は、翌年5月に勃発するコシャマインの乱の遠因となっている。
この間の康正2年秋の和人とアイヌの対立が沈静化したのち、政季は南部勢との抗争を抱える出羽国秋田湊の安東惟季に招かれて出羽国河北郡の檜山城に入部。檜山安東氏の基礎を築き、宿願の津軽奪回のために尽力した。
しかし長享2年(1488)、河北郡糠野城において、南部方の謀略によって謀叛を起こした家臣・長木大和守によって討たれた。