コシャマインの乱

15世紀半ばの蝦夷ヶ島(北海道)南部の渡島半島を統治していたのは安東氏だった。その統治体制は、渡島半島を「下ノ国」「松前」「上ノ国」と3つの区域に区分し、それぞれに「守護」を任じてその統治にあたらせていたのである。
安東氏は蝦夷ヶ島の先住民・アイヌ民族を交易に利用しつつ支配下に置こうと目論んでおり、混在して生活を営む和人とアイヌの対立は激化しつつあった。
康正2年(1456)の春、和人とアイヌを断絶する事件が起こった。オッカイ(乙孩)という若者が上ノ国志海苔村の鍛冶屋に注文していた小刀を受け取りに来た際、その値段をめぐって口論となり、鍛冶屋がオッカイをその小刀で刺し殺してしまったのである。
この事件がアイヌの激昂を招き、各地でアイヌが和人を襲撃するという騒動となったが、秋には沈静化していた。

しかし康正3年(1457)5月に至って渡島半島全域のアイヌが蜂起し、安東氏の支配拠点である12の居館を一斉に襲撃した。先の騒動が収まったのはアイヌが冬に備えて食糧を準備するために自然と沈静化したためであり、アイヌの憤慨が晴れたのではなかったのである。
総大将はコシャマイン、副将はその長男であり、その勢力は不詳であるが、9千人から1万人と推測されている。
元来が狩猟民族であるアイヌ勢は毒を塗った附子矢(ぶしや)や短弓で武装し、刺殺事件のあった志海苔館を最初の目標に据えると圧倒的兵力で陥落させ、続いて箱館をもたちまちのうちに攻め落とした。
これに勢いづいたアイヌ勢は陥落させた箱館を拠点として、さらに西進して下ノ国守護・安東家政の拠る茂別館に迫った。この茂別館は天然の要害に守られた居館であり、安東勢もよく防戦を続けたので、容易に陥落する気配を見せなかった。そこでコシャマインは別働隊を設け、茂別館の包囲を続けたまま別働隊をもってさらに西進させたのである。別働隊は中野館・脇本館・穏内(おんない)館・覃部(およぺ)館と次々と攻略し、松前の大館を包囲した。
大館には安東一族で松前守護の下国(安東)定季が籠もっていた。窮した定季は花沢館の蠣崎季繁に援軍を求め、これに応じて上ノ国から援軍が派遣されたがその援軍もアイヌ勢の伏兵によって撃退されてしまい、大館は防戦叶わず落城。下国定季はアイヌ勢に生け捕りにされた。
残る主城は上ノ国守護・蠣崎季繁の拠る花沢館である。アイヌ勢は禰保田(ねぼた)館・原口館・比石館を攻め落としながら北上し、花沢館に向かった。花沢館には各館から逃れてきた館主たちも籠もっていたが、各館主たちの協議の結果、一致して花沢館の客将・蠣崎信広(当時の名乗りは武田信広)に総指揮を委ねた。
信広の出自は若狭国より来た廻船商人だったという(若狭守護武田氏一族との説もある)。商人とはいえども、船を繰ってはるばる蝦夷まで来るほどの胆力があり、諸国を回っていることから情勢判断にも長けており、それを見込んで総指揮を任せたという。
これを受けた信広は、夜陰に紛れて兵を率いて花沢館を抜け出した。信広は隊を2手に分けると1隊に大館を正面から攻撃させ、その間にもう1隊で石崎川、左股川をさかのぼって大館の裏山に登り、そこから逆落としに大館を急襲して攻略、捕虜となっていた下国定季をも救出することに成功したのである。
さらに信広は箱館をも急襲することを決め、休む間もなく箱館に進軍した。
箱館は背後に箱館山を備え、攻めるに難い要害の地である。信広は数に劣る手勢で箱館を攻略するため、一計を講じた。それは総大将であるコシャマイン父子を城外に誘き出して討つ、というものであった。
信広はまず海辺の七重浜そばの密林に兵を伏せておき、それから館の正面から勢いよく攻め立てた。信広勢は迎撃に出てきたアイヌ勢と一当たりしたのちに敗走を始める。
これを勝機と見て追撃に出てきたコシャマイン父子を七重浜の密林まで巧みに誘導して挟撃に及び、アイヌの短弓よりも射程の長い強弓をもってコシャマインを討ち取った。
これが康正3年(=長禄元年:1457)6月20日のことである。総大将を討たれたアイヌ勢は城館を捨てて逃げ去ったという。

この戦いののち、信広の武勇に感じ入った蠣崎季繁は娘を娶らせて嗣子としたという。この信広の子孫が蝦夷における近世大名・松前慶広である。