陸奥国の南部氏では、天正10年(1582)に惣領であった南部晴政・晴継父子が相次いで没したことによって一族の石川(南部)信直がその後継者として立てられたが(晴政・晴継の死没年次には異説もある)、同じく南部一族の九戸政実は不満を抱いていた。政実の弟・実親も晴政の二女を娶っており、その勢威も見劣りしないものであったが、跡目相続の政争に敗れたためである。
その反目を引きずったまま天正18年(1590)に羽柴秀吉による小田原征伐、次いで奥州仕置という事態になり、南部氏の惣領となった信直は秀吉の傘下に入ったが、政実はこれに属さず、秀吉の軍勢が撤収するとともに、公然と信直に対する反抗にたちあがったのである。
天正19年(1591)3月、政実は櫛引清長・七戸家国・久慈備前守らを誘って、自分たちに味方をしない諸氏の城を攻めはじめた。これに対し信直も北・名久井・野田・浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、政実らの勢力が強大化し、ついに信直は嫡子・利直と重臣の北信愛の2人を上洛させ、秀吉に援軍を要請したのである。
秀吉にしてみれば、ようやく全国統一を成し遂げたばかりのところに反乱軍の蜂起ということになり、奥州再仕置の軍を向けることになった。奥州仕置によって取り潰しとなった葛西氏・大崎氏の遺臣たちも前年の秋頃より蜂起しており、いわゆる葛西・大崎一揆を起こしていたからである。
秀吉は甥の豊臣秀次を総大将に、九戸政実討伐の大将として蒲生氏郷、葛西・大崎一揆討伐の大将として伊達政宗を任命した。
氏郷が会津若松を出発したのは7月24日、軍勢は3万であった。8月7日頃には浅野長政の軍と合流して二本松から北進を開始し、23日に和賀に着陣。このあたりから九戸勢との戦いが始まり、9月1日には姉帯城および根反城を落とし、その勢いで九戸城の包囲にかかったのである。
この包囲軍には、大谷吉継の配下として出羽国の諸将も九戸城攻めに動員されており、小野寺義道・戸沢盛安・秋田実季らがこれに加わっていた。またそれだけでなく、津軽為信・松前慶広も北から南下して包囲網に加わり、そのため、九戸城の5千の城兵は、6万もの大軍に包囲されることになってしまったのである。
攻城軍は火矢や鉄砲、さらには松前勢のようにアイヌの毒矢を使って攻撃し、ついに9月4日、九戸氏に所縁の深い薩天和尚の取り成しによって降伏することとなった。
その日、政実・櫛引清長は剃髪して法衣に身を包んで降り、城を出て本陣の三迫に送られ、そこで百五十人余の主だった城兵と共に斬首されたのである。一方、大将の降伏で命を助けられると思っていた九戸城の城兵たちは二の丸に追い籠められ、そこに火をかけられて非戦闘員の婦女子に至るまで皆殺しにされてしまった。
この合戦ののち、信直には和賀・稗貫・志和の3郡が加増された。