大谷吉継(おおたに・よしつぐ) 1559〜1600

豊臣家臣。通称は紀之介。初名は吉隆。刑部少輔・従五位下。官位から「大谷刑部(ぎょうぶ)」とも呼ばれる。
豊後国大友氏の家臣・大谷盛治の子といわれる。大友氏の衰退により流浪したが、石田三成の推挙により、当時播磨国の姫路城主だった羽柴秀吉に150石で仕える。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では『賤ヶ岳の七本槍』に次ぐ戦功を挙げた。
天正13年(1585)7月、秀吉の関白就任に際して従五位下・刑部少輔に叙任され、秀吉の一字を受けて吉継と称した。
天正15年(1587)の九州征伐では石田三成と共に兵站奉行を務めた。
天正17年(1589)に越前国敦賀城主となり、5万石を領有して奉行職を拝命。
この前後の30歳頃から癩病を病み、顔容が崩れ、両目の視力を失うに及んで解職を願い出たが、その能力の高さゆえに許されなかった。
天正18年(1590)の小田原征伐、続く奥州平定にも従軍し、平定後には出羽国の検地を担当した。
文禄の役に際しては三成と共に船舶の調達にあたった。その年の天正20年(=文禄元年:1592)6月には三成・増田長盛らと共に軍監として渡海し、翌年には明軍との交渉にもあたった。
文禄3年(1594)、伏見城の普請を担当。慶長2年(1597)9月14日、秀吉を自邸に招いて饗応し、多くの贈物をして人々を驚かせたという。
秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600)の徳川家康による会津上杉征伐においては家康に従うために1千の兵を以て敦賀を発するも、途中で近江国佐和山城で石田三成に会見した際に、家康の討伐計画があることを打ち明けられた。吉継は三成にその計画を中止するよう忠告したが三成の意志は固く、思い悩んだ末に友誼に殉じて石田方に身を投じた。このとき三成に対して「貴殿は諸人に対して横柄なところがあり、評判も良くない。人の上に立って事を成そうとするときは世の人気を得なければならないものだ。この度の大事も毛利輝元殿と宇喜多秀家殿を上に立て、貴殿はその下について事を進めるようにしなければ上手くいかないだろう」と手厳しく諫めたことは有名。
一旦敦賀に戻って挙兵した吉継は前田利長軍を抑えて美濃国関ヶ原に進出。かねてより寝返りの噂のあった小早川秀秋に備えて陣を布き、一度は東軍の猛攻を退けたが、小早川隊の寝返りを警戒して配した赤座直保・朽木元綱脇坂安治・小川祐忠隊までもが寝返ったために、側背を衝かれて大谷隊は崩れたち、奮闘の末に壮烈な最期を遂げた(関ヶ原の合戦)。42歳。
癩病のために崩れた顔を白布で隠し、輿に乗って戦闘を指揮したという。