小早川秀秋(こばやかわ・ひであき) 1582〜1602

豊臣家臣。羽柴秀吉の妻・ねね(北政所・高台院)の兄である木下家定の五男。幼名は辰之助。初名は秀俊。金吾中納言。
天正12年(1584)に秀吉の猶子となり、ねねに養育された。
天正17年(1589)10月、羽柴(子吉)秀勝の跡をうけて丹波国亀山城10万石を領有した。
天正18年(1590)の小田原征伐に出陣、このときに少将、ついで右近衛権中将、天正20年(=文禄元年:1592)1月には参議権中納言に叙任という、異例のスピード出世を遂げた。
同年の文禄の役には、肥前国名護屋城に留守居役として駐屯。
実子のない秀吉の相続者と目されていた時期もあったが、文禄2年(1593)に秀頼が生れたことにより文禄3年(1594)11月、小早川隆景の養嗣子に迎えられて備後国三原城に赴いた。この頃に名乗りを秀詮と改めたと見られる。
文禄4年(1595)、豊臣秀次の事件に連座して丹波国の所領を没収されたが、病のために隠退する隆景の跡を受けて筑前国名島35万7千余石の領主となる。
慶長2年(1597)6月頃、名を秀秋と改める。
同年の慶長の役では渡海軍の総帥として朝鮮半島に赴き、蔚山城救援など、陣頭に立って戦った。だが戦況ははかばかしくなく、戦場において兵卒の如く自ら槍を振るって敵軍と渡り合ったことを「総大将にあるまじき軽挙」と秀吉に叱責され、帰国後に越前国北ノ庄12万石へ減封されるところを、徳川家康の斡旋と、秀吉の死去により危うく免れた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役においては、毛利勢の軍勢として西軍に加担、伏見城の戦いに参加した。9月15日、未曽有の規模の会戦となった関ヶ原の合戦でも西軍として松尾山に陣を張ったが、戦い半ばで東軍に寝返った。これにより西軍はたちまち総崩れとなり、戦後に西軍の宇喜多秀家の旧領・備前国、美作国で51万石の岡山城主の地位を与えられた。
だが横暴な振る舞いが多く、家臣の退散が多かったという。
慶長7年(1602)10月18日に21歳で没し、小早川氏は無嗣断絶となった。法名は瑞雲院秀巌日詮。
この死に関しては、「裏切り者」と罵られ続けて精神を病んだためとか、大谷吉継の亡霊に苛まれて気が狂ったなど、いろいろに言い伝えられている。