豊臣秀頼(とよとみ・ひでより) 1593〜1615

羽柴秀吉の二男。母は淀殿(浅井長政の娘・茶々)。幼名は拾・拾丸。
秀吉の晩年に生まれ、天下人の愛情を一身に集めた。文禄4年(1595)に秀吉の養子で、継嗣と目されていた豊臣秀次が自害したことにより豊臣氏の世継ぎとなった。
慶長3年(1598)4月に従二位・権中納言となる。
父の秀吉は死期が近いことを悟ると我が子の行く末を案じ、徳川家康前田利家ら五大老から誓紙を取り、将来を頼んだ。だが慶長5年(1600)の関ヶ原の役で、秀頼を擁立するという名目の西軍(石田三成方)が敗れたため、徳川家康が天下の実権を掌握、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国65万7千石余を領する一大名に転落、天下の支配権を失った。
慶長8年(1603)に家康の孫・千姫を娶り内大臣、慶長10年(1605)には右大臣に進むが、慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件で関東(徳川氏)と完全に手切れになり、大坂の陣が勃発。
この大坂冬の両陣を通して、秀頼は一度も兵の前に姿を現さなかった。夏の陣の戦況が絶望的となったとき、秀頼出馬によって大坂方将兵の士気を鼓舞し、徳川方についている豊臣恩顧の諸将の動揺を企図する真田幸村らの要請を受けて出陣の様相を整えたが、淀殿の強硬な反対にあって結局は城を出ることなく終わってしまったのである。
慶長20年(=元和元年:1615)5月、居城の大坂城を囲まれて自刃した。23歳だった。
大坂城の奥深くで、世間と没交渉のままで育ったためか、秀頼の人間像を伝える記録は断片的にしか残されていないという。しかし、会見した家康の言葉では「秀頼は愚魯なる人と聞きしに、一向にそんなことはなく、賢き人」とあり、その姿は長身の堂々たる偉丈夫だったという。