方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件

徳川家康の勧めにより、かつて羽柴秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿を豊臣秀頼が再建することになった。そしてその修営も終わり、慶長19年(1614)にその梵鐘の銘が入れられたときになって、家康はその文言に重大な言いがかりをつけたのである。
「国家安康」という句は家康の名を切ったものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、と解釈し、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒したのである。
これを受けた豊臣氏は家康のもとに片桐且元を弁明のために派遣したが、且元は家康に会うこともできず、本多正純(金地院)崇伝といった家康の側近からようやく「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けた。
しかし豊臣氏いまひとりの使者・大蔵卿の局が言うには「家康は機嫌よく会い、鐘銘のことには少しも触れないばかりか、秀頼は将軍・秀忠の娘婿でもあるのでいささかの害心もない」と明言したというのである。
淀殿は家康に直接会った大蔵卿の局の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条は徳川氏と示し合わせて豊臣氏を陥れようとするものに違いない、と信じ込んだのである。
こうして淀殿の信頼を失った且元は大坂城を退去するに至った。
しかし、これこそが家康の仕掛けた策謀であったのである。
豊臣氏討伐を目論む家康が、方広寺その他の寺社再建をさせることで莫大な経費を消費させることから始め、且元が復命した報告こそが真の要求であるのに、それを無視して且元を放逐したことは幕府に対する反抗であることに間違いなしと断定、大坂城攻撃を決定するに至るまですべて、家康の描いた筋書き通りに事が運ばれたのであった。