臨済宗大覚寺派の僧侶。「以心崇伝」とも呼ばれる。室町幕府将軍・足利義輝の家臣であった一色秀勝の子。
父の没後、南禅寺に入って玄圃霊三に師事する。一時は醍醐三宝院で学んだり、相国寺の西笑承兌とも親交を持ち、最終的に南禅寺金地院の靖叔徳林より嗣法した。文禄3年(1594)に26歳で住職資格(出世の公帖)を得て福巌寺に住し、さらに十刹寺院である禅興寺に転住した。
慶長10年(1605)2月に建長寺に住し、翌月には南禅寺270世の住持に就任して同寺の復興を成した。
慶長13年(1608)、徳川家康に招かれて駿府に赴き、承兌の後任として外交往復文書の書記となった。当初は単なる書記役として外交文書を手がけていたが、しだいに頭角を顕し、重く用いられるようになった。
慶長15年(1610)4月には駿河国に金地院を開いて居し、慶長17年(1612)8月からは板倉勝重と共に幕府の宗教行政に携わった。
慶長18年(1613)頃より国政に参画するようになり、『キリスト教禁止令』や元和元年(1615)の『武家諸法度』『禁中並公家諸法度(公家諸法度)』『諸宗寺院法度(寺院法度)』など多くの法令制定に関与した。その一方で家康の側近としても重用され、慶長19年(1614)7月の『方広寺鐘銘事件方広寺鐘銘事件』ではその銘をめぐって豊臣氏に圧力をかけ、大坂冬の陣のきっかけを作ったことはよく知られている。
元和2年(1616)の家康死没に際し、権現として山王一実神道で祀るか、明神として吉田神道で祀るかということで(南光坊)天海と争ったが、敗北を喫した。しかし元和4年(1618)には江戸芝に金地院を開き、翌年5月には僧録司となって五山十刹以下の寺院の出世に関する権力を握り、名実共に禅宗五山派の実権を掌握した。
寛永3年(1626)10月、後水尾天皇より円照本光国師の諡号を賜る。
寛永10年(1633)1月20日、江戸芝の金地院にて没した。65歳。
著書に『異国日記』『本光国師日記』『本光国師法語』などがある。
崇伝の江戸幕府に対する功績は大きかったが、国政においては辣腕を揮ったため「黒衣の宰相」と呼ばれ、庶民からは「大慾山気根院僣上寺悪国師」とあだ名されるほど人気がなかったという。また、寛永4年(1627)の紫衣事件において、崇伝によって厳罰を主張された沢庵は崇伝を「天魔外道」と評している。