豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ) 1568〜1595

三好吉房の子。母は羽柴秀吉の姉・とも(日秀)。秀吉の甥にあたる。通称は次兵衛・孫七郎。初名は信吉。はじめ三好康長の養子となり、天正10年(1582)に紀州討伐に出陣。その後康長のもとを去って秀吉に養われた。
天正11年(1583)2月、伊勢国の滝川一益を攻める。ついで4月の賤ヶ岳の合戦でも功を立てたが、翌年の小牧・長久手の合戦では大敗を喫し、秀吉から叱責された。しかし天正13年(1585)の紀伊四国征伐では戦功をあげ、近江国43万石を与えられて八幡山城主となった。
天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍、戦後に織田信雄の旧領だった尾張国と北伊勢5郡を与えられて所領は100万石。居城を尾張国清洲城に移す。翌年(1591)の九戸政実の乱鎮圧においても総大将として赴いた。
秀次は秀吉という後ろ盾によって、異常ともいえる昇進を遂げていく。18歳で従四位右近衛中将、21歳のときには正三位権中納言に叙任された。秀次が24歳のとき、天正19年(1591)に秀吉の長子・鶴丸が死んだのちには秀吉の後継者と目され、12月には左大臣となり、関白の位を秀吉から譲られたのである。
だが文禄2年(1593)に秀頼が誕生したことで一転、疎んじられるようになった。それを肌で感じてのことか、自棄的な乱行に耽るようになったのである。
秀次の乱行ぶりは『せっしょう関白』と呼ばれた。摂政関白の「摂政」と「殺生」をかけたのである。鉄砲の稽古と称して京都洛外に出かけ、田畑にいる農民を的にして撃ち殺したり、弓の的にするために通行人を召し捕って射殺したり、さらには日が落ちたあとに町へ忍び出て、出会った町人などを次々と斬殺するなど、無実の者数百人を殺したという。
また、比叡山に女たちを引き連れて上り、鹿狩りを行った。比叡山は仏教の聖地であり、殺生禁断の地である。宗徒がやめるように懇願すると更に荒れ狂い、猿や狸など手当たりしだいに狩り、それらの獲物を根本中堂に持ち込んで、大っぴらに調理したという。
これらの暴虐ぶりは秀吉の耳にも入り、秀吉もはじめのうちは見過ごしていたが、やがてはそれもできない状況になっていくのである。
そんな秀吉の怒りを爆発させたのが、秀次が文禄4年(1595)に行った朝廷への莫大な献金だった。秀吉はこれを謀叛の準備と見受けたのである。
秀次は差し向けられた詰問使に潔白を弁じたが秀吉は許さず、ついに関白・左大臣職が剥奪された。その後に高野山へ追放、7月15日に自刃を命じられた。28歳。
また、秀次の妻子・側妾ら30余人も三条河原で悉く斬られた。
この秀次の処罰は、秀頼の生母・淀殿の陰謀によるという説もある。