三好康長(みよし・やすなが) ?〜?

三好長秀の子。三好元長の弟で、三好氏の全盛期を築いた三好長慶の叔父にあたる。通称は孫七郎。山城守。号は笑岩。はじめ阿波国岩倉城主、のちに河内国高屋城主。
弘治年間までは三好氏の本国である阿波に在国していたようで目立った事績は見受けられないが、永禄年間頃より畿内の戦線に出陣するようになる。永禄4年(1561)には同族の三好義賢に従って和泉国で畠山高政の軍勢に備えており、翌年3月の久米田の合戦で義賢が戦死すると阿波国ないし淡路国に敗走したが、のちには三好氏重臣・松永久秀の檄に応じて逆襲に転じ、5月の教興寺・羽曳野(羽引野)の戦いで畠山勢を破っている。
永禄7年(1564)の長慶の死後は、若年で当主となった三好義継三好三人衆・松永久秀らと共に補佐した。
永禄8年(1565)より三人衆と松永氏が分裂抗争を起こすと三人衆方に与したが、永禄11年(1568)9月に織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、高屋城より四国に逃亡した。
翌永禄12年(1569)1月には、将軍に就任した義昭を三人衆と共に京都六条の本圀寺に攻めたが、撃退されている。
天正2年(1574)4月には再び高屋城に拠って信長に抗したが、天正3年(1575)4月に和議を結び、以後は有力な家臣となった。
天正10年(1582)、四国征討を企図した信長より阿波一国を与えるとの沙汰を受け、先鋒として阿波国勝瑞城に入城したが、同年6月の本能寺の変で信長が斃れたことを受けて堺に引き上げた。
その後、豊臣秀次を一時養子とするなど羽柴秀吉に用いられたが、晩年の行動は不詳。