本能寺(ほんのうじ)の変

天正10年(1582)3月、甲斐国の武田氏を滅ぼしたことにより、織田信長はいよいよ中国地方の毛利攻めに本腰を入れることとなった。すでに羽柴秀吉に、清水宗治が守る毛利氏最前線の城・備中高松城を包囲させていたが、秀吉の要請を受けて自ら出馬することを決め、さらには援軍として明智光秀をも派遣することに決めたのである。

光秀が中国地方への出陣の命を受けたのは5月17日のことで、一旦は居城の近江国坂本城に戻り、さらにもう一つの居城・丹波国亀山城に入った。そして28日には亀山城を出て愛宕山に参籠し、そこで籤を3度引いている。1、2度目が凶、3度目にしてようやく吉を引いたという。
また、28日に同所の西の坊で、連歌師の里村紹巴らと連歌の会を興行している。これはいわゆる「出陣連歌」というもので、出陣前に連歌会を開き、それを神前に奉納していけば戦いに勝てるという、当時一般の風習の一つであった。
光秀はこの連歌の興行中に物思いに沈むことが多く、出された笹ちまきを笹のまま口にすることもあったという。

一方の信長は5月29日、わずかの近臣を連れて安土を発向して京都の本能寺に入っている。
京都に自分の城を持たない信長にとって、本能寺は京都に留まるときの宿所としているところであった。寺とはいえども、四方に堀をめぐらし、土塁や塀で囲まれた城郭構えの建物である。先発していた嫡子・信忠はすでに近くの妙覚寺へと入っていた。
6月1日、信長は本能寺の別院で茶会を催した。この茶会は博多の豪商・島井宗室を正客とし、信長秘蔵の名物茶器を披露している。
その茶会のあとに酒宴となり、真夜中に信忠が宿所の妙覚寺に戻り、信長も床についた。

光秀は同日の6月1日の夕方に物頭級の武将を集め、「信長に中国出陣の武者揃えを見せるために京都へと行く」と告げた。午後10時頃に光秀の軍勢1万3千が居城の丹波国亀山城を出発した。
翌2日の午前0時頃には亀山の東、条野というところまで進み、そのあたりで初めて女婿の明智秀満をはじめ、斎藤利三・溝尾勝兵衛・藤田伝五・明智次右衛門らの重臣だけに謀叛のことを打ち明けたといわれている。このときの重臣たちの意見には積極的賛成や消極的賛成とあったが、光秀が謀叛を口にした以上は決行するしかないと腹を決めたようである。この時点ではまだ、兵卒には謀叛のことは知らされていない。
やがて光秀の軍勢は老ノ坂を越えて沓掛というところに至り、そこで小休止として弁当を取らせた。本能寺襲撃に備えてのことだったのであろう。また、こうした不自然な動きを本能寺に通報するものが現れることを警戒して、家臣の天野源右衛門を先遣隊として先行させ、通報する者があれば即座に切り捨てるように命じていたのである。
そして光秀の軍勢は桂川畔に着いた。桂川を越えれば京都は目前である。光秀はそこで兵たちに命じて鉄砲の火縄に点火させ、新しい草鞋や足半に替えさせている。その頃になると、家臣たちの中にも、単なる閲兵式にしてはおかしいと感じる者も出てきたようで、そうした動揺が波及しないように、全員が桂川を渡ったところで初めて、本能寺に信長を討つ目的であることを告げたという。

光秀軍が本能寺を囲んだのが午前6時頃といわれ、すぐに攻撃が開始された。このとき信長は眠っていたが、兵の乱入の騒ぎで目を覚ました。信長ははじめ、この騒ぎを家臣たちの喧嘩によるものだと考えていたようである。ところが、やがて鬨の声が上がり、鉄砲を撃つ音まで聞こえたために何者かによる襲撃であることに気がついたという。
そこへ森長定(蘭丸)が「水色桔梗の旗印、明智日向守殿謀叛」と注進に来た。そのときの信長の反応が「是非もなし」と言ったといわれ、有名なくだりである。
このときの信長の手勢は百人程度といわれるが信長自身も弓で応戦し、弓の弦が切れると槍に持ち替えて戦ったが、相手は戦上手で知られた明智光秀率いる1万3千の軍勢である。信長は命じて女たちを脱出させると奥へと戻り、炎の中で自刃したという。
ほか、近侍や小姓たち70余人が討死を遂げた。
光秀は家臣に命じて信長の死体を探させたが、とうとう見つけることができなかったといわれている。
その後、光秀の軍勢は信忠のいる妙覚寺へと向かった。