明智秀満(あけち・ひでみつ) ?〜1582

明智家臣。旧姓名は三宅弥平次。左馬助。はじめ荒木村重の子・村次(別名:村安)に嫁して村重の謀叛後に離縁された明智光秀の娘を妻とし、明智と改姓した。
秀満は明智家重臣筆頭格の地位にあり、光秀の丹波攻略などに従って功があり、天正9年(1581)頃に丹波国福知山城主となった。
天正10年(1582)の本能寺の変に際しては先鋒として活躍し、変後は接収した近江国安土城の守備にあたった。しかし、山崎の合戦の敗報を聞いて光秀の本城である近江国坂本城に入り、羽柴秀吉方の堀秀政らの軍勢に包囲されると勝ち目なしと見て6月15日、城に火を放ち、妻および光秀の妻子を刺して自刃した。この自刃の直前に、城に保管されていた名刀や茶の湯の名物を灰燼にするのはしのびないとして、秀政軍に引き渡したという逸話は有名である。
また、光秀敗死後に坂本城に入る際、敵軍勢の包囲網をかいくぐるために大津から唐崎に至る琵琶湖の遠浅を大鹿毛の名馬に乗って渡りきったという『湖水渡り』の伝説も残している。