山崎(やまざき)の合戦

天正10年(1582)6月2日未明、本能寺の変が勃発。事実上の天下人・織田信長が家臣の明智光秀に弑された。襲撃後、光秀は信長の遺骸を捜させたが、とうとう見つからなかったという。それでも信長の存在が消滅したことに変わりはない。信長嫡子の信忠も討死を遂げ、強固な結束力を誇った織田信長軍団はここに瓦解したのである。

徳川家康は同日、堺から京都へ向かう途中で変事を知ったが、少人数を率いた旅先ではどうすることもできず、本拠の三河国に帰国するのが精一杯だった。
信長の三男・信孝は四国平定に赴くため、丹羽長秀らと共に1万5千の兵を率いて大坂に来ていた。しかし変報が伝わると、あっという間に兵の半数以上が逃げ去ったという。
柴田勝家は、上杉氏に属していた越中国魚津城を攻め落としたばかりだった。6月7日に凶事を知った勝家は急遽戦線を縮小して防備を固め、越前国の居城に引き上げた。
滝川一益の元に情報が届いたのも6月7日。一益は上野国厩橋にいて関東の雄・北条氏と対決していたため、身動きが取れない。

羽柴秀吉は西国最大の大名・毛利氏に属する備中高松城を攻めていた。水攻めの方策が図にあたり、陥落を待つのみという状況であったが、毛利氏の援軍も布陣していたために迂闊には動けない有り様だった。
そんな秀吉のもとに、幸運が舞い込んだ。光秀は信長を討ったあとに毛利氏に宛てて密使を送ったのだが、その密使が間違って秀吉の陣所へと入ってしまったのだ。6月3日深夜のことだったという。
密書を手に入れた秀吉は驚愕した。すぐに弔い合戦を、と思ったことだろうが、毛利軍と対峙しているために身動きが取れないのである。しかも、時間がない。情報が伝播するのは時間の問題で、信長の横死が知れ渡れば自軍は混乱に陥ることは明らかで、毛利勢も攻めかかってくることは目に見えている。
秀吉は、信長横死の情報を隠したまま、毛利氏との和議を進めることにした。そして、高松城主・清水宗治の切腹という条件で和議を成立させたのである(高松城の戦い)。

6月6日、秀吉はそれまで留まっていた備中国高松城攻めの陣所を撤収し、上方へと戻ることになった。信長が光秀に弑されたことにより、それまでにやむなく信長に降っていた武将たちがどう出るか、また明智光秀がどう出るかわからず、とりあえずは上方へ向かい対応策を練るためであった。また、誓紙を取り交わしたとはいえ、毛利氏の動きも気になるところであり、追撃を心配しながらの撤退となった。
6日夜に岡山を経て備前国沼城に入り、その日はそこに泊まった。そして翌7日の早朝に出発、8日の朝までの丸一昼夜を走り通して姫路城まで、距離にして55キロも移動している。折から梅雨どきのため、各河川は増水しており、近くの農民を雇って人間の鎖を作り、その肩にすがって渡河したというから、「軍勢」という単位での移動速度としては驚異的な速度である。
この強行軍を『中国大返し』と呼んでいるが、その間にも秀吉は味方になってくれそうな武将への勧誘工作を怠りなく勧めていた。
また、秀吉が姫路から発とうとしたとき、いつも占いをしていた真言の護摩堂の僧侶が「明日は二度と帰ることのできない悪日なので、出陣は取りやめた方がよい」と進言したが、それを聞いた秀吉は「もし光秀に勝てば天下は意のままとなり、どこにでも城を築くことはできる。姫路に二度と戻らなくてもよい」と言って出陣したという。秀吉勢はその後も上方への急行を続け、12日の夜には摂津国の富田に陣を置いている。

一方の光秀は、本能寺襲撃当日の夕刻に本拠・近江国坂本城に入り、翌3日から4日にかけて秀吉の本拠地である長浜城や丹羽長秀の佐和山城を落とし、それと並行して近江・美濃の諸氏を誘降し、5日に安土城に入って近江国平定を完了している。8日には安土城から居城の近江国坂本城に戻っている。
9日には入洛して御所へと参内、銀5百枚を献上した。五山の寺々にも銀百枚ずつ配り、京都の住民には地租を免除する旨をふれた。いうまでもなく、懐柔政策である。
本能寺における光秀の襲撃計画は完璧だった。さして苦戦することもなく、信長父子を見事に討ち果たしている。その後の朝廷や京都住民への手配りもぬかりがない。事実、市井では光秀政権を歓迎する雰囲気もあったという。
しかし、唯一の誤算は予想以上に味方が集まらなかったことだ。織田家臣時代の同僚で親友の細川藤孝忠興父子は光秀の使者に対して信長追悼の意を表し、光秀への助力を拒否した。
与力大名であった筒井順慶からもはっきりとした返事をもらえず、よそよそしい態度で受け流されてしまったのである。
その頃には秀吉が毛利氏と講和して軍勢を戻しつつあるといった情報が寄せられていたのだろう、10日には京都を出発し、筒井順慶の参陣を促すために山城国八幡近くの洞ヶ峠まで出陣している。
11日、光秀は洞ヶ峠の陣を撤して下鳥羽を本陣とし、兵の一部を割いて淀城を修築させたりしており、しだいに光秀も秀吉も、山崎の天王山あたりで衝突するのではないかという意識を持ち始めていた。とくに光秀としては、秀吉の大軍をなんとしても山崎の狭隘部で防ぎとめなければ、と考えていたようである。大坂方面から京都に入るためには、どうしても通らなければならない場所であったのである。
しかし12日、どういうわけか山崎に置いていた兵を退かせて、円明寺川の線で左右に展開させている。

同じ12日、秀吉は富田において全軍の部署を決定し、すでにその日のうちに高山重友隊が山崎の町を、中川清秀隊が天王山を占拠し、そこで光秀勢との小競り合いがあった。しかし、この日はあくまで先鋒同士の衝突で、本格的な戦いは翌13日に持ち越されたのである。
この合戦の兵力については、高松城攻めのときの秀吉軍は2万5千といわれている。少数の兵士を高松城や姫路城に残してきているが、そのほとんどは山崎に出陣しており、秀吉軍の中核を成していた。これに高山重友・中川清秀・池田恒興・丹羽長秀・織田信孝らの兵も加わって、総勢で4万といわれている。
それに対して光秀方は前述のとおり兵が集まらず、1万6千程度だったという。

13日、光秀は勝龍寺城を前線の拠点として、城から1キロほど西南の御坊塚に本陣を移した。淀城を最左翼、円明寺周辺を最右翼とした布陣である。
この日は朝から雨が降っていた。お互いに動きを警戒して軍を動かさず、午前中は何事もなく過ぎた。戦いが始まったのは午後4時頃といわれており、光秀勢の右翼先鋒、並河易家・松田左近隊が天王山の東麓に陣を張っていた中川清秀・黒田孝高・神子田正治らの隊に攻撃を仕掛けたのが開戦の合図となった。
並河・松田隊は、勝龍寺城の側面の敵を払いのけようとする目的と、あわよくば一度失った天王山を回復しようとしたものといわれる。ところが、この並河・松田隊の攻撃は、光秀勢にとっては全くの裏目に出てしまったのである。中川・黒田・神子田らの軍勢が並河・松田隊を撃退した勢いでさらに進み、光秀軍の主力部隊である斎藤利三隊が池田恒興・加藤光泰・木村隼人・中村一氏らの軍勢に包囲される形となってしまい、乱戦の中で壊滅してしまった。斎藤隊は2千の軍勢で、光秀勢の中では中心的な勢力だったため、これが崩れたことによって、まず前線は光秀の大敗北となってしまった。
合戦の場合、一隊が崩れだしてそれが止められなくなると、全軍総崩れとなることがよくあるが、このときの光秀軍の敗北はまさにそれだった。
斎藤隊が崩れたことによって、光秀本隊は秀吉勢の攻撃を防ぐことができず、態勢を立て直すために、ひとまず勝龍寺城に入った。そこで今度は、秀吉勢はその勝龍寺城を包囲しはじめたのである。
勝龍寺城は4万の大軍の攻撃を支えられるほどの城ではなかった。光秀は、秀吉勢の包囲網が完全に出来あがるまえに、さらに籠城可能な城へ脱出する機会を狙い、日が落ち、暗くなってから勝龍寺城を出て近江国坂本城を目指すことになった。
ところが敗走という混乱状態であるために組織だった撤退になり得ず、文字通り算を乱しての敗走ということになってしまった。
光秀にとっての最大の誤算は、このときの敗走が亀山組と坂本組の2つに分かれてしまったことである。当時光秀には丹波国亀山城と近江国坂本城の2つの居城があったが、敗走先がひとつに絞られていなかった。このことが光秀の周囲から人が減ってしまったひとつの原因であった。

坂本城に入り再起を図ろうとした光秀らの一行は、勝龍寺城を出て久我畷を通り、西ヶ岡・桂川・鳥羽方面へと敗走していった。まとまって逃げては秀吉勢の探索網に引っかかってしまうとの配慮から、光秀自身も、まわりには溝尾勝兵衛ら数人の近臣が付き従うにすぎないという状況であった。
桂川を渡り大亀谷を過ぎ、山科の小栗栖の竹薮にさしかかったとき、光秀は突然、潜んでいた農民の繰り出す竹やりに脇腹を刺された。それに気がついた溝尾勝兵衛が駆け寄ったときには既に虫の息で、勝兵衛の介錯で自刃して果てたのである。
こうして光秀は、信長を本能寺に討ってからわずか11日目で死んでしまったわけであるが、14日には安土城にいた明智秀満が光秀敗報に接して坂本城に入り、翌15日、坂本城にあった財宝すべてを秀吉方の堀秀政に渡したうえで自刃して果てたのである。
17日、光秀の首は本能寺にさらされた。近江国堅田で捕えられた斎藤利三も京都六条河原にて斬られた。