細川藤孝(ほそかわ・ふじたか) 1534〜1610

姓を長岡としている時期もある。幼名を萬吉。通称は與一郎(与一郎)。兵部大輔・従四位下・侍従・二位法印。のちに幽斎玄旨と号した。
剣術・弓術に秀でた武人であると同時に、茶道・有職故実・古典文学などを究めた文化人でもあった。天正4年(1576)10月に古今伝授を受けている。
幕臣・三淵晴員の長子。母は高名な学者であった清原宣賢の女。一説には将軍・足利義晴の落胤とも。天文3年(1534)4月22日に生まれた。
天文8年(1539)(天文9年とも)に晴員の実兄・細川元常の養子となる。幼少の頃の藤孝は母方の清原家で教育を受けた。その教養の深さはこの頃に培われたものだという。
天文15年(1546)に元服、室町幕府13代将軍・足利義藤(のちの足利義輝)の一字を与えられて藤孝と名乗る。
天文21年(1552)、従五位下兵部大輔に任ぜられ、23年(1554)には元常病死のため細川氏の家督を継ぐ。
はじめ、幕臣として足利義輝に仕えた。義輝が三好長慶に逐われて近江国朽木谷に逃れたときは藤孝も随行して辛苦をなめている。永禄8年(1565)に義輝が松永久秀らに弑されたとき、藤孝は領地の山城国勝龍寺(別称:青龍寺)城にいたために難を逃れている。
その後、還俗した足利義昭を奉じて越前の朝倉氏を頼り、のち、明智光秀を介して織田家に身を置くに至る。
義昭を奉じる織田信長に従って上洛、大和国・摂津国などを転戦して旧領である山城国勝龍寺城主に復帰した。
天正元年(1573)に信長より山城国長岡の地を与えられ、姓を長岡とした。
天正5年(1577)には織田信孝・明智光秀と共に、信長に叛旗を翻した松永久秀の籠もる大和国信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。
義昭・信長の確執が深まると、本来の主・義昭を見限って信長に属した。明智光秀と共に中国経略に活躍し、制圧した丹後国を本領とした。石高は12万3千石。
和歌に秀でた文道の人と言われるが、時代の遊泳術も巧みであった。本能寺の変ののちには子・忠興の舅でもある明智光秀から誘いを受けたがこれを拒絶、即座に剃髪して隠居、幽斎と号して家督を忠興に譲った。自身は羽柴秀吉に応じ、一色義有を宮津城に誘殺し、丹後国を平定した。
やがて秀吉に近侍し、天正14年(1586)に秀吉より在京料として山城国西ヶ岡に3千石を与えられた。
天正15年(1587)には秀吉の九州征伐に従軍し、天正17年(1589)には忠興の知行とは別に、丹後国に4万石を与えられ、田辺城を居城とした。この間に二位法印の地位を得ている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍に属し、丹後国田辺城に籠城(田辺城の戦い)。西軍勢力に攻囲され、兵力に劣る田辺城の落城は火を見るより明らかで、藤孝は死を覚悟して臨んだという。が、そんな中にあっても古今伝授の奥義を収めた筥(はこ)を戦火に消失させないように宮中に送り、そのあとで戦闘を再開したという話は名高い。
戦後、但馬一国を加増された。晩年は主として京都吉田に住んだ。
慶長15年(1610)8月20日、77歳で京都に没した。法号は徹宗玄旨泰勝院。
元首相の細川護熙氏は、この家系に連なるという。