足利義晴(あしかが・よしはる) 1511〜1550

室町幕府第12代征夷大将軍。在位期間は大永元年〜天文15年(1521〜1546)。
第11代将軍・足利義澄の子。幼名は亀王丸。左馬頭・右大将・従三位・大納言。
永正8年(1511)3月5日、父・義澄の流浪先の近江国で生まれたが、近江も危険であったために永正11年(1514)より播磨国へと逃れ、播磨守護・赤松義村のもとで養育された。
ところが、先に義澄と戦って足利義稙を再び将軍位に就けた幕府管領・細川高国が、今度は義稙を阿波国に逐い、大永元年(1521)に義晴を迎えて将軍職に就けた。これは義晴を有名無実な傀儡将軍として利用するための方策で、義晴が実際に権力を揮うことはなかったのである。
大永7年(1527)2月に高国が桂川の合戦に敗れて京都を逐われた際、高国に奉じられて近江国坂本に避難した。その後、高国に対抗していた細川晴元三好元長が義晴の弟・足利義維(足利義稙の養子)を擁して阿波国から和泉国堺に入って暫定新政権(いわゆる堺幕府)を樹立したために室町幕府は崩壊同然となったが、同年10月には細川高国のほか近江国の六角定頼や越前国の朝倉孝景の支援を受けて入京を果たした。しかしその後も抗争は続けられ、義稙・晴元との和睦を試みたが成らなかったため、大永8年(=享禄元年:1528)5月に六角氏と共に近江国坂本に下り、9月には近江国朽木の領主・朽木稙綱を頼って落ち延びた。
享禄4年(1531)6月に高国が、享禄5年(=天文元年:1532)6月に元長が相次いで敗死したのちの天文3年(1534)、細川晴元と和して帰洛した。
政敵が消えたことで、義晴を推戴する晴元政権は確立したかのように見えたが、晴元は畿内の有力国人領主らによる権力闘争を抑えることができず、政情は実に不安定なものであった。義晴は天文10年(1541)に近江国坂本に出奔し、翌年3月には晴元の勧めにより帰洛するも、天文16年(1547)には畠山政国・遊佐長教に与して晴元と衝突、再び逐われて近江国坂本へと避難、翌天文17年(1548)6月になると再度帰洛するという状態だった。
この間の天文15年(1546)12月、将軍職を辞して子の義輝に譲っている。
しかし天文18年(1549)、元長の子・三好長慶が摂津国において晴元方の軍勢を破ったことにより、義晴は晴元や六角氏らと共に近江国に逃れた。
この後も京都への復帰を図ったが果たせず、天文19年(1550)5月4日、近江国坂本の穴太(あのう)で病没した。40歳。法号は万松院曄道照。