朝倉孝景(あさくら・たかかげ) 1493〜1548

越前国朝倉氏第10代当主。朝倉貞景の嫡男。明応2年(1493)11月22日に生まれる。通称は孫次郎。弾正左衛門尉。越前守護。
永正9年(1512)3月、父・貞景の死没を受けて家督と越前守護職を相続する。
永正10年(1513)に将軍・足利義稙が六角氏綱と戦って敗れて近江国甲賀に逃れたとき、孝景は近江国に兵を差し向けて氏綱を伊勢国に逐い、義稙を帰京させた。この功によって永正13年(1516)6月、義稙より白傘袋・毛氈鞍覆を許された。
桂川の合戦ののちの大永7年(1527)10月、管領・細川高国と将軍・足利義晴の要請に応じて京都帰還を支援するための軍勢を派遣、東山の合戦における11月19日の京都西七条の川勝寺口(泉乗寺口)での戦いに勝利、その戦功によって翌大永8年(=享禄元年:1528)5月、御相伴衆に加えられた。
永正3年(1506)以来、朝倉氏は加賀一向一揆と対立していたが、永正15年(1518)に細川高国の仲介を得てからは小康が保たれていた。しかし享禄4年(1531)に加賀一向一揆が大一揆と小一揆に分裂しての抗争(大小一揆の乱)となると、大一揆鎮圧の好機と見て小一揆を支援したが、小一揆側の形勢が不利となるとこの抗争から離脱し、加賀・越前の国境を封鎖している。
天文年間の初期頃、入道して性安斎宗淳と号す。
天文4年(1535)4月には後奈良天皇の即位式費用として青銅1万疋を献上したので、塗輿を幕府より許された。天文7年(1538)6月には将軍の御相伴衆に列した。
天文17年(1548)3月22日、波着寺参詣の帰途に頓死した。56歳。法名は性安寺殿大岫宗淳大居士。
この孝景の時代は中央政権において変転著しい時期であったが、曾祖父・朝倉敏景以来の越前国主として飛躍し、幕府においても有力大名という存在感を定着させた時代であった。
その軍事力を背景に美濃守護・土岐氏の内紛や加賀一向一揆の内訌に関与し、幕府の要請を受けて若狭国や京都に派兵するなど積極的な軍事活動を展開したが、大叔父・朝倉宗滴らを総大将として派遣することが多く、孝景自身は一度も自ら出陣しなかったという。
また孝景は学問や神道にも深い興味を示し、永正5年(1508)9月に飛鳥井雅康から蹴鞠の奥義を伝授されている。そのためか「風流太守」と呼ばれた。