三好長慶の家臣として頭角を顕し、長慶の亡き後は長期に亘って三好三人衆と畿内の覇権を争っていた松永久秀は永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に逸早く降伏した。その後は信長の配下武将として大和一国を安堵されたが、やがて足利義昭・三好三人衆・石山本願寺・武田信玄らと結託して信長を裏切るに至る。
元亀4年(1573)7月、信長はついに義昭を追放した(足利義昭の乱:その2)。これによって室町幕府は滅亡し、元号は元亀から天正へと改められた。久秀は再び信長に降伏して許された。大和国の統治権や居城・多聞山城などを没収されこそはしたが、助命されたのである。裏切りには苛烈な処置を与える信長が久秀を許したのは、不安定な畿内の統治を進めるにはまだ久秀の力が必要だったのであろう。ところがその3年後、大和国の守護にかつて敵対していた筒井順慶が据えられた。ここに久秀の信長への反感が募ったといわれる。
そして天正5年(1577)、久秀は再度の謀叛を起こした。その当時信長は北陸平定を進める柴田勝家に宛てて大軍を派遣しており、畿内の備えは手薄になっていた。それに加えて越後国の上杉謙信が兵を率いて上洛するという情報もあり、ここを好機と見てのことだったのであろう。
佐久間信盛配下の将として石山本願寺を包囲する天王寺砦に詰めていた久秀は8月17日、突如として息子・久通と共に大和国に帰り、信貴山城に籠もった。軍勢は3百騎、8千余人といわれる。
松永久秀はかねてより領内統治をするには多聞山城、軍事においては信貴山城と、2つの城を使い分けていた。信貴山城は河内国と大和国の境界をなす生駒山地にある山城で、近世城郭の祖といわれる久秀の縄張りだけに、7方に伸びる峰と谷を要害として巧みに作りあげられていて守りは極めて堅い。
久秀の突然の帰国の報に、信長は松井夕閑を派遣して帰国の理由を尋ねさせたが、夕閑は城の中にさえ入れなかったという。
しかし、上杉謙信は北陸地方で織田勢を打ち破る(七尾城の戦い〜手取川の合戦)と自国へと引きあげていったのである。上杉勢侵攻の脅威が除かれるとすぐに、信長は久秀討伐の軍勢を催したのである。
松永久秀討伐の前哨戦として10月1日、支城である河内国片岡城が織田勢の攻撃を受けた。守兵は1千人。織田勢先陣の筒井順慶・細川藤孝・明智光秀らは海老名友清、森正友らを討ち取ったが城方の反撃も盛んで、激しい戦いとなった。
同日、久秀討伐軍の総大将として織田信忠が安土を出陣した。3日には先陣と合流し、城下をことごとく焼き払って信貴山城に迫った。佐久間信盛や北陸戦線に出ていた羽柴秀吉・丹羽長秀などの軍勢も加わり、総勢4万の大軍となった。
信長は城を囲ませる一方で、5日、京都で人質にとってあった松永方の男児(久秀の孫という)2人を見せしめのため六条河原で殺害した。
同じく5日、織田勢は攻撃を仕掛けたが久秀・久通父子の防戦が巧みで、手こずっていた。ところが8日の夜になって、城方に内応者が出た。援軍を求める密使として信貴山城を出た武将がかつて筒井順慶の家臣であり、そのまま順慶の陣に駆け込んできたのである。そして順慶から精鋭2百人を授けられ、これを石山本願寺よりの援兵と偽ってまんまと再び城に戻ったのである。
そして10月10日、総攻撃が開始された。織田勢は未明より鬨の声をあげて、山上を目指した。これと合わせて城内に潜入した筒井勢が火を放ち、混乱状態を引き起こした。敗戦、そして死を覚悟した久秀は4層の天守閣に登って火を放ち、名器・平蜘蛛の茶釜を粉々に打ち砕いて自らも爆死した。裏切りを繰り返して台頭したこの男は、家臣の裏切りによって滅びたのである。
この久秀が最期を遂げた10月10日というのは、ちょうど10年前に三好三人衆との戦いで東大寺の大仏殿を焼いた日であった(東大寺の戦い)。因果応報である、と当時の人々は畏怖したという。