柴田勝家(しばた・かついえ) ?〜1583

織田家臣。通称は権六。修理亮。織田家中にあっては筆頭格の重臣として重きをなし、織田信長に仕えて名が上がった。
武略に優れ、出陣にあたっては常に先陣を命じられ、形勢不利な退却戦には殿軍を務めたという、音に聞こえた勇将。それと同時に、優れた民政家でもあった。後年、越前の一向一揆を討滅後、越前国を与えられて北ノ庄城主となった勝家は刀狩りを断行、農民の武器をすべて取り上げたが、これを鋤や鍬などの農具に鋳なおして、また農民に与えたという。さらには鎖に鋳なおし、国中から48艘の舟を集め、これを鎖で繋いで九頭龍川に架橋したという。
はじめ織田信秀に仕え、信秀の死後は信長の弟・信勝(信行)に付された。その頃、一時は「うつけ者」と見られていた信長を廃して信勝を織田家の家督につけようと謀ったこともあるが失敗し、その後は恭順して信長の忠実な臣となる。
元亀元年(1570)6月、近江国長光寺城に籠もったとき(長光寺城の戦い)、飲み水を蓄えた甕を叩き壊して決死の覚悟を示したことから『甕割り柴田』の異名が伝わる。
天正3年(1575)、信長の越前平定後に北ノ庄城を居城として、越前国のうち丹生・吉田・坂井・足羽の4郡を領有した。
本能寺の変後の清洲会議では主導権を羽柴秀吉に握られ、勝家の推す織田信孝を跡継ぎに据えることができず、北近江の3郡を得るにとどまったが、絶世の美女と謳われた信長の妹・お市の方を妻に迎えることになった。
天正11年(1583)に賤ヶ岳で秀吉と戦う(賤ヶ岳の合戦)。しかし属将・佐久間盛政の勝手な突出により敗走、利無く北ノ庄に退いた。しかし北ノ庄城も追撃してきた秀吉勢の猛攻撃を受け(北ノ庄城の戦い)、4月24日、夫人のお市の方と共に自刃。年齢は不詳で57、58、62歳などの説がある。