佐久間盛政(さくま・もりまさ) 1553〜1583

尾張国の土豪・佐久間盛次の長子。母は柴田勝家の姉。幼名を理助。妻は奥山重定(佐久間弥太郎)の妹。玄蕃允。
剛勇をもって知られ、天正4年(1576)に加賀一向一揆が石山本願寺の檄に呼応して織田信長の武将・戸次(梁田)広正を大聖寺城に攻めたため急遽、盛政が鎮将となって平定戦の指揮を執ることとなったが、『鬼玄蕃』と猛将ぶりを謳われた盛政は、一揆の本拠・金沢御坊を陥れ、天正8年(1580)に加賀一国を領して尾山(金沢)城に入った。
上杉氏の武将で越中国松倉城主・河田長親の加賀侵攻を防ぎ、天正10年(1582)の本能寺の変後、石動山衆徒の反乱を鎮定した。
天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の合戦では柴田勝家軍の先鋒となり、中川清秀の守る大岩山砦を抜いた。だが功を焦って進退の機を誤り、羽柴秀吉の軍勢に急襲されて大敗を喫し、捕えられた。この盛政の突出が全軍敗走の原因となったとされる。
同月24日の勝家の敗死(北ノ庄城の戦い)後は秀吉の降誘を受けたが拒絶したため、大紋の小袖を着たまま京洛を引き廻され、5月12日に山城国槙島で斬られ、六条河原に晒された。