中川清秀(なかがわ・きよひで) 1542〜1583

摂津国茨木城主。父は中川重清。通称は虎之助・瀬兵衛。
はじめ摂津国の池田勝正に属し、永禄11年(1568)に足利義昭が上洛すると臣従した。
元亀2年(1571)に摂津国高槻城主・和田惟政を討ち取った。
天正6年(1578)に織田信長に仕えて荒木村重の配下となり、4万石余を領した。村重が信長に叛くと、羽柴秀吉の勧誘で高山重友と共に信長に降った。対明智光秀軍の山崎の合戦では羽柴勢に属して武功を立てる。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では1千の手勢で大岩山の砦を守り、緒戦で佐久間盛政4千の兵の攻撃を受けながらも敵陣に突入すること9回、全員玉砕して果てた。4月20日のことで、42歳だった。法名は行誉荘岳浄光院。
清秀の子・秀政は父の功により播磨国三木城を与えられ、朝鮮の役に出陣して討死した。その弟・秀成が家を継ぎ、筑後国竹田城(岡崎)7万4百石を領し、関ヶ原の役では東軍に属した。