大和国宇多郡沢城主・高山友照の長子として生まれる。幼名は彦五郎。諱は長房・友祥と称したが、のちには茶道に通じて南坊を号とした。官途は右近大夫・大蔵少輔で、この官途名から高山右近とも呼ばれる。
戦国時代における最も敬虔なキリシタン大名として知られる。
永禄7年(1564)、友照が大和国宇多郡沢城に招いた宣教師・ロレンソにより、幼くして洗礼を受ける。受洗名はジュスト(寿子・重出)。
天正元年(1573)、和田惟政の死後に家督を継いだ惟長と争ってこれを摂津国高槻城から逐い、ほどなく城主となる。
天正6年(1578)に荒木村重が織田信長から離反するに及んでは、村重に与することを約束して妹と長子を人質に出すが、重友が領す高槻を要衝の地と見た信長は、宣教師・オルガンチノを使いとして「味方につかなければ全部のパードレ(神父)を磔に処し、高槻領内のキリシタンを皆殺しにし、教会も破壊する。しかし織田陣営に与すれば摂津の半国を与えると共にキリシタン保護にも万全を尽くす」という強迫まがいの説得を重ねたのである。煩悶の果てに重友は領主の地位を捨て、単身で信長に降ることを決意し、人質を出して謁見した。そのときに摂津国島上郡芥川城を、翌年に村重が敗走したのちには高槻城を安堵された。
以降は信長の臣として諸戦に参陣する一方で、高槻領内における布教活動にも更に力を尽くした。セミナリオや教会が多数設けられ、信者は激増し、高槻は京・大坂・堺と並ぶ近畿キリスト教布教の重要な拠点となった。天正9年(1581)には教会の数が20、領民2万5千のうちの1万8千人ほどがキリシタンに改宗していたという。
天正10年(1582)、明智光秀討伐のために備中国高松城から兵を返してきた羽柴秀吉に属し、山崎の合戦では自ら先鋒として参加した。戦後、秀吉から高槻4万石を安堵され、更に4千石の加増を受けている。
以降は秀吉の配下として11年(1583)の賤ヶ岳の合戦、12年(1584)の小牧・長久手の合戦、13年(1585)には紀伊浜城、阿波国一宮城の戦い、15年(1587)の九州征伐などの諸戦を転戦。しかし、畿内の要衝である高槻を秀吉が直轄領として欲したため、天正13年閏8月には播磨国明石郡明石城6万石に転封させられている。
この間も重友はキリスト教の布教に努め、友誼のあった蒲生氏郷や黒田孝高らを勧誘し、受洗を勧めている。しかし天正15年6月、伴天連(バテレン)追放令が発せられ、保身のためにキリスト教を捨てる武将や大名が続出するが、重友はキリスト教を捨てなかった。しかし、その代償として領地を没収される。しばし小西行長を頼って小豆島や天草に隠棲したのち、前田利家・利長父子に仕えて1万5千石を領す。この頃に剃髪して南坊と号した。
天正18年(1590)には小田原征伐に従軍、慶長5年(1600)の関ヶ原の役には利長の臣として参陣、行賞として5千石の加増を受ける。
慶長6年(1601)には自費で金沢に教会を設立するなど、前田領内においても布教活動に励んでいたが、徳川家康によるキリスト教禁止令発令後の慶長19年(1614)、妻子や内藤如安らと共に京都へ送られたのち、長崎から多数の信徒と呂宋(ルソン)へ放逐された。
翌慶長20年(=元和元年:1615)1月3日、マニラにおいて病没した。63歳。信仰を全うしたその死は殉教と見なされ、マニラでは1630年(寛永7年)より重友を聖人に列させるための運動が起こっている。
信仰心を貫きとおしたキリシタンであると同時に千利休の流れを汲む茶人としても著名であり、『利休七哲』のひとりとして名高い。また、慶長4年(1599)に金沢城の修営、14年(1609)には高岡城を築城するなど、築城の才も見せた。