一時的にとはいえ室町幕府を解体して畿内に君臨した三好長慶が永禄7年(1564)に没したのち、その後継に長慶の甥(実父は十河一存)・三好義継が立てられたが、未だ若年であったために三好三人衆と松永久秀がその補佐役として諸政を執行する体制となった。しかし求心力低下は免れ得ず、権力強化を図る将軍・足利義輝との対立がしだいに深まっていくと、三好氏はこの情勢を打破するために将軍を自らの手中にあった足利義栄に挿げ替えることを画策し、永禄8年(1565)5月に義輝を殺害するに至ったのである(室町御所の戦い)。
しかし間もなく三人衆と久秀は政権運営の主導権をめぐって対立するようになり、同年11月16日には河内国飯盛城を急襲した三人衆が三好義継を飯盛城へと拉致して手中に収めるとともに、次期将軍職の候補者である足利義栄に久秀の追討を命じる御教書を出させ、久秀を討つ大義名分を作り上げたのである。
この三好家中の内訌が勃発すると、久秀が領国としていた大和国ではその支配に反発する筒井順慶が三人衆方に与し、かつて三好氏によって紀伊国に逐われていた河内・紀伊守護の畠山高政や河内国人領主の遊佐・安見らは松永方に呼応、さらには紀伊国の根来寺衆徒も松永方として参戦するなどしたため、この対立は一家中の内訌に留まらず、畿内の広範囲をも巻き込む分裂闘争へと拡大することになったのである。
この両陣営による抗争は、永禄8年末より三好方の軍勢が大和国に進んで久秀を圧迫したことを皮切りに始まり、翌永禄9年(1566)2月に大和国多聞山城外で三好勢を撃退した松永勢が紀伊国からの畠山勢と呼応して河内国を窺うも、この紀伊国からの軍勢が和泉国上之芝で三好勢の迎撃を受けて大敗を喫したため、松永勢も大和国へと退却した。4月には再び大和国に侵攻した三好勢が筒井勢と合流して松永方の諸城を攻撃したが、5月下旬には密かに軍勢を動かした久秀が三好勢の裏をかいて摂津国を経て和泉国の堺に出現して畠山勢と合流を果たすなど一進一退であったが、5月末日の夜に久秀が軍勢を解体するとともに消息を絶ったため、三好勢が畿内を制圧するに至った。
この後、将軍宣下を待つ足利義栄が三好方の篠原長房に奉じられて摂津入国を果たしたことによって三好氏による畿内統治は安定するかに見えたが、三好陣営内で冷遇されていた当主・義継が永禄10年(1567)2月に松永方に寝返り、4月にはそれまで姿を隠していた久秀が多聞山城に現れたことによって、三人衆との抗争が再燃したのである。
三好三人衆・筒井順慶らは多聞山城に拠る松永久秀を討つため、4月18日に1万ほどの軍勢を率いて大和国奈良へと出陣し、24日にはさらに進んで興福寺大乗院、東大寺南大門あたりに陣を構えた。これに対して久秀は多聞山城から迎撃の兵を繰り出して大仏殿の西に位置する戒壇院や転害(手掻)門に軍勢を配置しており、この日、この両軍によって「昼夜ただ雷電の如し」と記されるほどの激しい銃撃戦が展開されたようである。
5月2日には三好方が軍勢を東大寺へと進め、岩成友通・池田勝正らが二月堂や大仏殿回廊に布陣、両軍は東大寺北方を挟んで対峙するという形勢となった。
しかし三好勢が奈良に進駐してから半月ほどのこの間に、般若寺・文殊堂・妙光院・観音院・無量寿院・宝徳院・妙音院・徳蔵院・金蔵院など数多の由緒ある寺院の堂宇が焼失することとなった。その多くは、多聞山城攻めの拠点とされることを警戒した松永勢によって、戦術的に焼き払われたといわれる。
この後しばらくは東大寺では大きな動きはなく、その周辺での戦闘が展開されることになるが、10月10日の亥の刻(午後10時頃)に松永勢が突如として多聞山城から出撃し、大仏殿を襲撃したのである。
これに対して池田勝正の陣では動じずに堅く守っていたが、三好勢はこの不意の攻撃に崩されて統制を失い、敗残の兵が池田の陣所に逃げ込んできたりしたため、池田勢をも巻き込んでの総崩れとなって摂津・山城国方面へと敗走していった。三好方の死者は2百から3百ほどとみられる。
この戦いによる兵火(あるいは三好方の失火)が大仏殿回廊へと延焼し、ついには丑刻(午前2時)頃には大仏殿が焼失するという事態にまでなってしまった。焼失したのは大仏の仏頭・伽藍・穀屋坊・念仏堂・大菩提院・唐禅院・四聖坊・安楽坊などであった。鐘楼堂にも火が移ったが、僧侶らが合戦の場でも恐れずに身命を捨てて消火作業にあたったことによって、ようやく類焼を免れたという。
また、キリスト教の宣教師・ルイス=フロイスはその著書『日本史』で、この大仏殿焼失は、キリスト教に帰依していたひとりの兵士が異教(仏教)の象徴である大仏殿に放火したものである、と記している。