松永久秀(まつなが・ひさひで) 1510?〜1577

出自は摂津国富田の豪族の出身というものや、京都西岡の商人出身など諸説があって不詳。前半生の経歴も不明である。官途は弾正忠・弾正小弼・従四位下。霜台(弾正台の唐名)とも称された。
細川晴元の執事として仕えた三好長慶に随身したのは天文11年(1541)以前と見られており、のちにその娘を妻として家老に栄進した。とくに天文18年(1549)に長慶が京都を掌握してからは家宰として台頭し、弾正忠に任ぜられる。
弘治2年(1556)頃には摂津国滝山城に拠っていたが、永禄2年(1559)8月に河内・大和の国境に程近い大和国信貴山城に移り、翌永禄3年(1560)7月頃より大和国侵攻を開始。8月末には大和国の北半分、11月にはほぼ全域を平定している。この大和平定において筒井順慶を逐って多聞山城を築くが、この城が天守閣を持つ近世城郭の諸端となったといわれる。
また同年、幕府御供衆に列し、従四位下・弾正小弼に任じられる。
主家・三好氏は畿内における六角氏や畠山氏との戦いにおいて劣勢だったが、永禄5年(1562)5月の教興寺・羽曳野(羽引野)の戦いにおいて勝利に貢献するなど、軍略家としても名を馳せた。
永禄6年(1563)、長慶の嫡子・義興を毒殺したといわれる。また永禄7年(1564)長慶の弟・安宅冬康を讒言して長慶に殺させたともいわれており、ために長慶は心身に異常をきたすことになった。
長慶の死後の三好氏は三好義継があとを継いだが、実権は久秀と三好三人衆が握っており、永禄8年(1565)に義継をたきつけて征夷大将軍・足利義輝を室町御所に襲撃して殺させた(室町御所の戦い)。
この頃より主家の主導権をめぐって三好三人衆と不和になり、三人衆が足利義栄を推戴して久秀討伐の名分を立てると、久秀は義継を擁立し、畿内において干戈を交えた。
永禄10年(1567)10月に三好三人衆と大和国において戦っているが、東大寺の大仏殿が焼失したというのはこのときのことである(東大寺の戦い)。ただし、この事件は久秀が火を放ったのではなく、三好三人衆方の失火だったといわれる。
三人衆との戦況は一進一退であったが、永禄11年(1568)に織田信長足利義昭を奉じて上洛すると三人衆はそれぞれ逃亡したが、久秀はいち早く『九十九髪』の茶器を献じて義継と共に降伏し、大和一国を安堵された。
その後は信長に従い、朝倉攻めや石山本願寺攻めなどに加わる。永禄13年(=元亀元年:1570)の「金ヶ崎の退き口」の際には退却する信長と共にあったが、近江国朽木谷の通過において領主・朽木元綱を説得し、信長の帰還に助力した。
のちに信長と不和になり、元亀3年(1572)4月に足利義昭・石山本願寺・三好三人衆・朝倉義景浅井長政武田信玄ら『信長包囲網』に同調、信長に叛く。しかし信玄は病没、朝倉氏・浅井氏ともに信長によって滅亡させられ、足利義昭も追放されたために包囲網は壊滅。友軍を失って窮した久秀だったが、このときはまだ利用価値があると目されたためか、降伏して許された。
しかし天正5年(1577)、「上杉謙信上洛」の報を得ると、再度信長より離反。だが実際に謙信が上洛することはなく、孤立無援となった居城の信貴山城を織田信忠率いる軍勢に包囲され、10月10日に名器と謳われた『平蜘蛛の茶釜』を砕いて爆死した(信貴山城の戦い)。68歳という。
茶人・文化人としても著名であったが、その権謀術数を弄した生き様から『戦国の梟雄』などとも呼ばれる。また、主君・三好長慶を死に追いやったこと、将軍・足利義輝を暗殺したこと、奈良の大仏を焼失させたとして、信長からは『悪人』と呼ばれた。