天文18年(1549)2月に将軍家の足利義晴・義輝父子や奉公衆らを京都から逐って幕府機能を停滞させ、それに代わる独自の政権を打ち立てた三好長慶であったが、長慶に反発する勢力のために畿内の情勢は芳しくなかった。数度の抗争を経たのちの永禄元年(1558)11月に至って長慶は義輝と和を結び、この義輝を戴いて幕府機構を復活させることで政情の安定を試みた。しかし義輝は自らが国政を主導する将軍権力の復活を意図していたため、対立が止むことはなかった。
その長慶が永禄7年(1564)7月に没すると養嗣子・三好義継が後継となるが、義継の後見として威勢を増した三好三人衆や松永久秀は、幕政における主導権を奪回するために義輝の暗殺を企図したのであった。
永禄8年(1565)5月19日辰の刻(午前8時)頃、三好・松永の軍勢が突然に室町御所(別称:二条御所)の将軍邸を包囲、邸内に乱入した。将軍邸には30人ほどが警固するのみで、対する三好・松永勢は大軍だったという。しかし義輝は穏やかに最期の宴を催すと、御所に詰めていた奉行衆や武士らと共に打って出たのである。
義輝は将軍でありながらも兵法家・塚原卜伝より指南を受けた剣術の達人であり、畳に幾本もの太刀を突き立てると群がる敵をしゃにむに斬り倒し、切れ味が落ちると太刀を取り替えてはまた斬り伏せるといった鬼神のような奮闘ぶりを見せた。しかし最期には足を薙刀で払われ、転倒したところを畳(または障子)を押し被せられ、その上から槍で突き伏せられたという。
圧倒的な兵数差にもかかわらず、義輝らは午の刻(正午)頃までに三好方の兵2百余人を斬り伏せるという激烈な戦闘であった。
この後、将軍の跡目に三好氏の擁する平島(阿波)公方・足利義栄を推戴する動きが起こる。三好氏はこの義栄を傀儡の将軍として据え、その下に在って政権を掌握しようという目論見であったが、その実権をめぐる内訌が三好三人衆と松永久秀の間で起こり、その対立は武力闘争にまで発展するに至った。
その混迷の中で義栄は永禄11年(1568)2月に将軍職に就任したが、同年9月の義栄の病死、さらには織田信長が義輝の弟・足利義昭を擁して上洛したことにより、三好氏は衰退を迎えることとなったのであった。