三好家臣。三好義賢(実休)麾下の武将。右京進。阿波国麻植郡上桜城主。
父祖は近江国篠原の出身で、多賀社神官の従者として阿波国に下って土着したという。
義賢のみならず三好氏当主の三好長慶からも厚い信任を受け、天文23年(1554)に主家・三好氏が播磨国の赤松氏と三木氏の抗争に介入して派兵した際には阿波軍(三好義賢軍)の先鋒隊を担って出陣しており、永禄2年(1559)に義賢が河内国へ出陣した際には、三好氏の本貫地である阿波国の留守役を任されている。また、同年末頃より河内国に本拠を移した義賢に代わって阿波・讃岐国の支配を委ねられた。
永禄4年(1561)、畠山高政・根来寺宗徒らに対抗して和泉国に出陣した義賢を支援するため四国の兵を率いて出陣し、永禄5年(1562)3月の久米田の合戦でも奮戦したが、義賢が討死すると敗走した。
以後は義賢の遺児・三好長治を補佐して阿波国勝瑞城に在り、永禄7年(1564)に長慶が没したのちは三好三人衆や松永久秀らとともに三好氏の家政を担った。
永禄8年(1565)頃より三人衆と松永氏が分裂抗争に及ぶと一貫して三人衆に与し、翌年6月には将軍跡目として足利義栄を奉じて阿波国より出陣し、松永方の摂津国越水城を攻略するなどして三人衆の京都制圧に大きく貢献した。
永禄11年(1568)9月に織田信長が足利義昭を擁して上洛すると一戦も交えずに細川真之・三好長治を奉じて阿波国に逃れているが、元亀元年(1570)に本願寺法主・顕如が信長に対して決起すると、本願寺と結んで信長に抵抗した。
しかし同族・篠原自遁の讒言を容れた細川真之・三好長治・十河存保らによって元亀4年(=天正元年:1573)5月13日、本領である阿波国河島の上桜で攻め滅ぼされた。
長慶の没後に混迷を極めた三好家中をよく支えた名臣と称され、分国法『新加制式』を制定したことでも知られる。陪臣(家臣の家臣)の地位に在りながらも分国法を制定したのはこの長房のみであり、特筆されるべき事績である。