増田長盛(ました・ながもり) 1545〜1615

豊臣家臣。近江国浅井郡増田村の出身という。通称は仁右衛門。右衛門尉・従五位下・従四位下・侍従。
長浜城主時代の羽柴秀吉に仕え、2百石を領す。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦には先陣を務め、兜首二級を得て武名を挙げ、2万石に加増された。
天正13年(1585)7月、従五位下・右衛門尉に叙位・任官。
天正15年(1587)の九州征伐や17年(1589)の肥後国一揆鎮定にも出陣した。
のちに五奉行のひとりに加えられ、知行や庶務・民政など、主に奉行や吏僚として幅広く活躍。近江国や安房国など、検地奉行としての経験も豊富で、その優れた実務能力で秀吉の政策推進に尽力した。
天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍した。また文禄慶長の役には主として兵站輸送の任にあたっていたが、渡海して行政・軍務などをも掌握しており、秀吉からの信任の厚さがうかがえる。
文禄4年(1595)、羽柴秀保の死去により大和国郡山城主として20万石に転じた。
秀吉の死後も五奉行のひとりとして秀吉遺児・豊臣秀頼を補佐した。
石田三成らが徳川家康の暗殺を謀ったとき、家康に密告。だが慶長5年(1600)の関ヶ原の役では西軍に加わり大坂城で留守居を勤めたが、戦後に所領を没収されて高野山へ追放され、のちに武蔵国岩槻城主・高力清長に預けられた。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣には大坂城の偵察を家康に命じられたが、これを拒絶。翌年(1615)の夏の陣において長男の盛次が大坂方に加担(戦死した)したことで、切腹を命じられた。5月27日、71歳。