羽柴秀保(はしば・ひでやす) 1579〜1595

三好吉房の三男。母は羽柴秀吉の姉・とも(日秀)。幼名は辰千代。豊臣秀次羽柴(小吉)秀勝の実弟。
10歳のときのときの天正16年 (1588)、男児のなかった叔父・羽柴秀長の養子となり、天正19年(1591)に秀長の病状が重くなると急遽、正式な嗣子に指名された。その後間もなく秀長の死去により家督を相続、大和国郡山城主となる。
秀長時代よりの家老・藤堂高虎を後見役に紀伊・大和国を領し、同年11月に従四位下・参議に任ぜられた。天正20年(=文禄元年:1592)2月には従三位・権中納言に進み、大和大納言または郡山中納言と呼ばれた。
文禄の役には1万人を率いて藤堂高虎と共に肥前国名護屋に駐屯、普請役を務めている。
文禄4年(1595)大和国十津川で病死した。4月16日、17歳。
疱瘡か麻疹を患ったというが、一説には十津川で入水、または横死したとも伝えられる。