藤堂高虎(とうどう・たかとら) 1556〜1630

伊勢国安濃津領主。幼名は与吉。通称は与右衛門。佐渡守・和泉守・従四位・侍従・右少将。近江国犬上郡藤堂村の出身であることから藤堂姓を称す。藤堂虎高の二男。
はじめ浅井長政に仕え、元亀元年(1570)の姉川の合戦で功を挙げたが、浅井氏の威勢がなくなると浪人し、同じく近江国の阿閉氏に仕え、ついで磯野員昌に身を寄せた。どちらも一月もしくは数ヶ月ほどで見切りをつけ、次には津田信澄に仕えた。
天正4年(1576)羽柴秀長に仕え、軍功により3千石を与えられた。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦にも功があって2千石を加増され、のちに羽柴秀吉から5千石を加増された。
天正15年(1587)の九州征伐の軍功により1万石を加増され、紀伊国粉河で2万石の領主となる。この頃に秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任した。
秀長の没後はその嗣子・秀保に仕えた。文禄の役においては秀保に代わって渡海し軍功を挙げたが、文禄4年(1595)に秀保が死去したのち、世を捨てて高野山にて剃髪。しかし秀吉に召し出されて直臣となり、伊予国宇和島(板島)7万石を与えられた。
慶長2年(1597)から始まる慶長の役では再び渡海した。水軍を指揮して7月に唐島で敵船を捕獲、8月には南原城を抜き、9月に水原で敢闘し、負傷した。帰国後に伊予国内で1万石を加増され、8万石を領有した。
秀吉の直臣である一方で徳川家康とも懇意であり、慶長5年(1600)の関ヶ原の役には徳川方(東軍)に属した。会津上杉征伐、美濃国岐阜城攻略に加わり、9月15日の関ヶ原の合戦では西軍の大谷吉継隊に属していた朽木元綱脇坂安治・小川祐忠・赤座直保の小大名が小早川秀秋の寝返りの直後に同調して大谷隊に襲いかかったが、これには高虎の事前工作が働いていたともいわれている。戦後に伊予半国の20万石を与えられ、今治城主となる。
慶長13年(1608)には加増転封を沙汰されて伊勢国安濃津と伊賀一国で22万9百石の領主となり、津城を居城とした。
慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣では徳川軍の先鋒となり、八尾・若江の合戦長宗我部盛親らと戦った。その戦功で伊勢国の4郡のうちで5万石を加増され、同年閏6月、従四位下に昇叙。元和3年(1617)には多年の功績を評価され、伊勢国田丸でさらに5万石の加増を受けて32万3千余石の領主となった(この田丸5万石は、のちに徳川頼宣の紀伊国入部に際して大和・山城国のうちの5万石と交換となった)。
高虎は、華々しい武功譚こそ多くはないものの、情報戦略や人使いの妙に長けていたという。
家臣の中に遊女狂いと博打狂いの者がいて、どちらも家財をすってしまった。これを聞いた高虎は遊女狂いは追放処分に処したが、博打狂いには百日の閉門と家禄減封に処するに止めた。この違いについて、遊女に入れあげて武器までも売り払うようでは先の見込みがないが、博打は人に勝とうという利欲があり、武士としてはまだ使い道もある、ということだという。また、暇乞いをする者があれば、高虎はその者を招いて自ら茶を立てて勧め、佩刀などを与えたうえで、先方で不都合があればいつでも戻ってまいれと言葉をかけた。このため、一度は藤堂家から離れた者でも再び帰参する者も多かったという。
また、名のある武将を召抱えることにも意を注いだ。剛勇を誇る渡辺了(勘兵衛)を2万石で召抱えたのもその表れだが、戦場では無名の士百人よりも、音に聞こえた勘兵衛の方がより敵に恐怖感を与えることができる、と考えてのことだったという。
江戸幕府の幕藩体制が確立したのちも日光東照宮の造営や、2代将軍・徳川秀忠の娘である東福門院の入内にも奔走するなど幕府への忠勤に励み、津藩の藩祖として藩政の基盤強化に尽力した。
晩年に失明したといい、寛永7年(1630)10月5日に没した。75歳。法号は寒松院殿道賢高山権大僧都。