羽柴秀長(はしば・ひでなが) 1540〜1591

羽柴秀吉の異父弟。天文9年(1540)3月2日生まれ。幼名は小竹。通称は小一郎。初名は長秀。美濃守・大和大納言。肉親の縁に薄い兄・秀吉を補佐して活躍し、大いに期待された。
元亀3年(1572)2月、浅井長政家臣・宮部継潤(善祥房)の調略に成功。
天正4年(1576)の石山本願寺攻めにおいては、竹中重治と共に天王寺砦の守備にあたった。
天正5年(1577)には秀吉に従って中国経略に出陣、但馬攻めの総大将に任じられ但馬国竹田城主となり、8年(1580)には但馬国出石城を治めた。
天正10年(1582)の山崎の合戦にも功があり、従五位下・美濃守に叙任。播磨・但馬国の領主として姫路城に居住した。
その後も天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦、13年(1585)の紀州根来・雑賀衆討伐に功を挙げて紀伊国・和泉国で64万石を領す。
その直後の四国征伐には秀吉の名代として阿波・讃岐方面に出陣、わずか50日ほどで長宗我部元親を降し、四国を平定した。率いた軍勢が8万余ともいわれる大軍であったこともさりながら、司令官としての秀長の手腕によるところが大きかったといわれる。
この功績で大和国44万石が加増されることとなり、閏8月には大和国郡山城に入城。大和・紀伊・和泉の3国と伊賀の一部を領して110万石の大名となる。
天正14年(1586)1月、従三位・参議に昇進、10月に権中納言、11月には正三位に叙せられる。
天正15年(1587)の九州征伐には1万5千人を率いて出陣し、日向方面に侵攻。勇猛で知られる島津勢と干戈を交えた。九州平定後の8月に従二位・権大納言に昇進、「大和大納言」と称された。
天正18年(1590)初頭頃より病にかかった。一時的には回復したとみられ、同年春の小田原征伐には船手で出軍している。しかし10月頃より症状が重くなり、翌天正19年(1591)1月22日、郡山城で惜しまれながら病没した。52歳。奈良県大和郡山市箕山町の大納言塚は、秀長の葬地である。
秀吉の片腕として天下統一に大きく貢献した。秀吉政権の国政の統括者であり、その温厚篤実な人柄から、従えた諸将をまとめあげるという調整役もこなし、大きな影響力も持っていた。また為政者としても領民を慈しむこと一方ならず、理想的な分国統治を行ったといわれている。