宮部継潤(みやべ・けいじゅん) 1528〜1599

豊臣家臣。近江国浅井郡宮部村に生まれる。父は土肥真舜。通称は孫八・善祥坊。中務卿法印。
天文5年(1536)、比叡山に上り、剃髪して継潤と称す。しかし、仏事よりも軍事を好み、密かに宮部村に帰り、宮部善祥坊と号して浅井長政に仕える。
元亀2年(1571)、羽柴秀吉の誘いを受けて織田信長に降り、ついで秀吉に臣事する。
天正5年(1577)より秀吉の中国経略に従軍、但馬国への侵攻で功を挙げて但馬国豊岡城を与えられた。
天正8年(1580)6月、鳥取城攻めに従軍。鳥取城が落城すると継潤が城代としてこれを管理、因幡国の支配にあたった。
天正13年(1585)には越中征伐に出陣、天正15年(1587)の九州征伐では4千の兵を率いて羽柴秀長軍に属して豊後国・日向国に侵攻、とくに日向国高城を攻めた際の根白坂の合戦では島津家久を攻めて武功を挙げ、秀吉より感状を受ける。天正17年(1589)12月には因幡・但馬国で5万石を与えられた。
天正18年(1590)の小田原征伐には従軍したが、天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役には子・長煕が代わって渡海している。
文禄3年(1594)、伏見城の普請工事を分担する。
慶長元年(1596)12月、長煕に家督を譲り隠居するも、秀吉の奉行衆・御伽衆の一人として政務に参加。算勘に長じたといい、検地奉行を務めた。
慶長4年(1599)3月25日没。72歳。