織田信雄と結んだ徳川家康は、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦において四国の長宗我部元親、紀伊国の根来衆や雑賀衆、越中国の佐々成政らと結んで羽柴秀吉勢力を取り囲む一大包囲網を作り上げた。
しかし巧妙な外交戦略で織田信雄・徳川家康と和議を結んだ秀吉は、天正13年(1585)に紀伊征伐を敢行、さらには長宗我部氏を攻めて四国をも平定し(四国征伐)、これらの勢力を取り込んでさらに強大な勢力となったのである。
佐々成政は、織田家中においては秀吉と同輩の武将だった。柴田勝家が織田信長より北陸地方の統括を命じられると、その与力として越中国富山城主として勢力を張っている。しかし「反秀吉」陣営の成政は、秀吉と家康らが小牧で対陣している間の天正12年の8月末に、秀吉に与した前田利家の所領に侵攻し(末森城の戦い)、そののちも厳冬の日本アルプス越えをして家康に徹底抗戦を訴えかけるなど、一貫して反秀吉の態度を崩さなかったのである。
四国征伐を終えた秀吉は即座に軍勢を催し、8月8日より自ら軍勢を率いて越中征伐へと出発した。
京都から近江国坂本、越前国を経て8月18日には前田利家の加賀国金沢城に到着、饗応を受けた。
対する成政は58箇所の砦をもって防備を固めた。とくに加賀と越中国境の倶利伽羅峠付近には36もの砦を配置したという。
8月20日、羽柴勢は倶利伽羅峠や礪波山方面から侵攻、富山城へと迫る。しかし連日の大雨で神通川が洪水を起こすなどでやや難航したが、29日に成政が剃髪して黒衣を纏うという法体で羽柴勢営を訪れて降伏を請い、許された。
またこのとき、成政と呼応して飛騨国司・姉小路自綱(頼綱)も秀吉に敵対する姿勢を見せたが、金森長近を攻め入らせてこれも降した。
この越中征伐が完了したことによって、織田信長政権に従属していた支配地域のほぼ全てをその傘下、または影響力下に収めることとなったのである。