佐々成政(さっさ・なりまさ) 1539〜1588

織田家臣。尾張国春日郡比良の土豪・佐々木盛政(成宗)の二男として生まれる。通称は内蔵助。陸奥守。
織田信長に仕えて、永禄5年(1562)に美濃国に出陣以来、戦功めざましいものがあった。永禄10年(1567)には黒母衣衆の筆頭となって活躍。
永禄12年(1569)の伊勢国北畠氏との戦いや天正元年(1573)の越前朝倉征伐、天正3年(1575)の越前一向一揆鎮定などに勲功があった。
その功で越前国府中3万3千余石を領治し、前田利家不破光治と共に柴田勝家の与力大名として領国目付役となった。
天正9年(1581)に上杉家と戦い、越中一国を領して富山城主となる。
天正10年(1582)の本能寺の変で織田信長が弑され、家中が羽柴秀吉派と柴田勝家派に分かれると、勝家方についた。成政は徹底した秀吉嫌いで、思慮も深くなく、政治情勢を見極めて行動するという器用さに欠けていたという。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦ののちに秀吉に服属するが、12年(1584)の小牧・長久手の合戦において徳川家康に呼応、再び羽柴秀吉と敵対したため、天正13年(1585)に秀吉勢の攻撃を受けて(越中征伐)降伏した。
天正15年(1587)の九州征伐後、秀吉に許されて肥後国隈本(熊本)城に転封させられるも、領内の国人領主層の一揆を鎮圧できなかったという理由で天正16年(1588)閏5月14日、摂津国尼崎に呼び寄せられ、羽柴秀吉の命で切腹させられた。50歳。法号は成政寺庭月洞閑。天文4年(1535)生れの54歳とする説もある。
また、佐々・徳川両氏の連携策を説くために強行した、厳冬の日本アルプス越えは有名。