天正12年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が小牧・長久手で戦ったが、戦線は膠着し、この年の晩秋に和議に持ち込まれた。それを知った反秀吉の佐々成政は、あくまで徹底抗戦を主張すべく、遠江国浜松の家康のもとへと駆けつけようとしたのである。
成政の領地である越中国から家康の本拠である浜松へ行くには、越前国から近江国へ抜けて、美濃国・尾張国を通るのが一般的である。しかしそこはすべて秀吉の息のかかった、いわば敵地であった。そこで成政は中部地方の山岳地帯を縦断するコースを選んだのだった。
厳冬の11月、黒部から分け入り、ザラ峠の難路を克服し、針の木峠を越えてようやく信濃国へとたどり着くことができたのである。しかも、険しい山奥で一軒の樵夫の家を見つけるという幸運があり、この樵夫の案内で道を迷うことなく進むことができたのであった。
こうして信濃国の下諏訪に入り、12月にようやく浜松へと到着。こうして家康に会見し、徳川と佐々が組めば羽柴勢力に対抗できる、という旨を説いた成政だったが、翌13年(1585)の秀吉の越中征伐の際には家康からの加勢は得られず、秀吉軍に降伏することになった。