飛騨国の戦国大名。三木良頼の子。幼名は岩鶴丸。初名は光頼。別称を頼綱。妻は斎藤道三の娘とされる。従五位下・左京大夫・大和守・左衛門佐・侍従。飛騨国松倉城主、のち広瀬高堂城主。
永禄2年(1559)10月、飛騨国司家の姉小路氏の一家と認められる。永禄6年(1563)3月には侍従に任じられ、姉小路宰相と称された。
永禄13年(=元亀元年:1570)1月、三木氏は禁中の修理や幕府の公用のため上洛するよう織田信長に命じられ、3月には父・良頼の名代として上洛している。
父の良頼は、はじめ三木氏を称したが、飛騨国司家である姉小路氏の名跡を継承し、その良頼が元亀3年(1572)11月12日に没したため、家督を継ぐ。
良頼は越後国の上杉謙信に誼を通じて越中国の出陣などに協力し、かつ尾張・美濃国を領する織田信長とも良好な関係を維持していたが、上杉・織田の両氏が完全に交戦状態となった天正5年(1577)頃には織田方として行動していることが窺え、天正6年(1578)には織田勢として越中国に出陣している。
天正10年(1582)10月に吉城郡の高原諏訪城主・江馬輝盛を討ち(荒木八日町の合戦)、翌天正11年(1583)1月には大野郡鍋山城主の鍋山氏、ついで牛丸氏や広瀬氏を倒して飛騨国をほぼ統一し、この直後から天正12年(1584)初頭頃にかけての時期に家督を子・秀綱に譲って広瀬高堂城に移り住んだたようである。
天正12年に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が抗争(小牧・長久手の合戦)に及んだ際には、反秀吉であった越中国の領主・佐々成政と共に織田・徳川陣営に与した。
翌天正13年(1585)8月、秀吉は越中国に佐々成政を攻めて降しているが(越中征伐)、これと時を同じくして飛騨国にも金森長近の軍勢が侵攻すると、抵抗を試みるも次々と諸城を落とされ、広瀬高堂城を開城して降伏。この戦いで子の秀綱・季綱兄弟も松倉城に拠って抗戦したが支えきれず、落城直前に脱出して信濃国に逃れるも、土民に襲われて非業の最期を遂げたという。
自綱は開城後に飛騨国を追放されて京都に隠棲し、天正15年(1587)4月、京都にて病没した。享年48。法名は大龍院寒巌道松大居士休安。