越中国を領する佐々成政ははじめ羽柴秀吉方であり、同じく秀吉に与する前田利家の二男・利政を養子にするというほどの友好ぶりを見せていたが、小牧・長久手の合戦で徳川家康・織田信雄の連合軍が善戦しているのを見て、家康に与することに心を決めた。
そして天正12年(1584)8月28日、成政は突如として羽柴方の前田利家に属する朝日山砦を攻め、さらには前田氏の能登における拠点である末森城を9月9日から攻めはじめた。
末森城は加賀と能登の玄関口にあたり、越中国とも境界を接する要衝の地であった。ここを押さえることができれば、前田氏の領土を分断でき、その後の軍事行動も展開しやすくなることは明らかであった。
当時、末森城には利家の重臣・奥村永福が3百余の兵力で守っていたが、1万2千の兵を擁する佐々勢の凄まじい攻撃の前に三の丸・二の丸を落とされ、ついに本丸を残すのみとなった。
このとき末森城内では玉砕の覚悟を決めていたが、永福の妻・安が薙刀を手に「援軍は必ず参る。無駄に命を捨ててはならぬ」と城兵を激励し、夫の永福が諦めて切腹しようとすると「今ここで死んで何の甲斐があるか!」と激しく叱咤したという。
この急報に接した利家は老臣たちの自重論を蹴って末森城の救援に向かい、浜伝いに進んで城を包囲している佐々軍の背後に回ることに成功した。
11日の夜明けとともに利家率いる2千5百の救援軍が背後から佐々勢に攻めかかり、これに勇躍した末森城兵たちも城から打って出たため、城中と城外とで挟み撃ちとなって佐々勢は壊滅した。このとき佐々勢は12名の主だった武将を失い、2千余の死者が出たという。
成政自身は末森城南方の坪井山に本陣を置いて指揮をしていたが、敗北の様子を見て富山へと撤退を余儀なくされた。
この鞍替えによる失敗で成政は孤立し、翌年(1585)に秀吉の征伐を受けることになったのである。