織田信長から中国経略の大任を命じられた羽柴秀吉は、播磨方面の平定を終えると、今度は但馬・因幡国方面へと攻撃の重点を移していった。具体的に見ると天正6年(1578)4月から但馬の攻略にかかり、8年(1580)5月には因幡に出陣して鳥取城を攻撃し、降伏させている。
その頃の鳥取城主は因幡守護の山名豊国で、彼は毛利方に属していたが、秀吉の甘言を鵜呑みにして城を出てしまったとも、秀吉が軍勢を退かせたのちに城内の大勢が再び毛利氏へと傾いたが、すでに信長に人質を送って降伏してしまった手前、秀吉を頼ってわずかな人数で出奔したともいう。いずれにしても豊国が城を出たのが9月21日のことであり、城中に残った豊国の家老・中村春続と森下通与の2人は秀吉に屈服することを嫌い、毛利方の山陰方面の中心人物となっていた吉川元春に急使を送ってこの旨を知らせた。元春ははじめ豊国にかわる城将として牛尾元貞を送り、のち市川雅楽允・朝枝春元にかわらせた。ところが中村・森下の両名はこれでは満足せず、もっと指導力のある武将の入城を求めたのである。
そこで抜擢されたのが、石見国福光城主・吉川経安の嫡子である吉川経家だった。
経家は翌天正9年(1581)3月18日、鳥取城に入った。この入城後すぐに千代川のそばに丸山城を築かせることで陣容の建て直し、城外からの糧道確保の策をとった。しかし、城内の食糧事情は予想以上に逼迫していたのである。
これは前年の秋、秀吉の手の者が因幡国の米を、収穫と同時に時価の数倍(2倍程度か)の値段で買い占めてしまったためといわれる。鳥取城が要害堅固な城であるため容易に落とせないであろうことを憂慮した秀吉は兵糧攻めにすることを考えたが、この買占めはその下準備だったわけである。と同時に、因幡国の郷村の農民たちにひどい仕打ちをして、農民たちが鳥取城に否応なく入るように仕向けたともいわれている。これは、非戦闘員である多数の農民をも城に籠もらせることによって、それだけ城内に蓄えられた食糧の消費を早めることが目的だとされている。
秀吉が2万の大軍を率いて姫路城を出発したのが6月25日、但馬口から侵攻して鳥取城および支城の丸山城が包囲されたのが7月12日である。厳重な城の包囲に加え、兵糧の搬入路になると目される千代川の河口付近にも砦を構築するという念の入れようである。
対する毛利勢は1千4百人といわれる籠城兵に雑兵や非戦闘員を加え、3千4百人ほどになったとみられる。鳥取城の本丸に吉川経家、二の丸は森下通与、三の丸を中村春続が守り、雁金山には塩冶高清、丸山城には山県左京進や但馬国の海賊大将の奈佐日本助らが籠もった。
秀吉は、鳥取城を堅固に包囲したままで軍勢を動かさなかった。前年からの下準備が功を奏して鳥取城の糧米がわずかであるということを見越して、城方が音を上げるのを待つという戦略である。毛利方からの兵糧の支援を完全に断つために本陣を帝釈山(本陣山)に置き、総延長3里(約12キロ)にも及ぶ包囲網で固めた。鳥取城付近に多数の櫓と陣屋を町屋作りに構え、将兵の略奪・暴行を防ぐための店や小遊廓をも作り、長期戦というよりは長期滞在に備えた構えを布いたのである。
この城攻めに参陣した秀吉配下武将は羽柴秀長・堀尾吉晴・仙石秀久・中村一氏・神子田正勝・黒田孝高・蜂須賀正勝・木村隼人・浅野長政・加藤光泰・木下重賢・桑山修理・杉原家次・宮部継潤らという錚々たる面々だった。とくに宮部継潤は道祖峠に進出し、久松山と雁金山の通路を遮断するという大きな働きを見せた。
当初、木の実や皮などを食べてつないでいた城兵たちはやがて牛や馬のみならず、秀吉勢に鉄砲で撃たれた味方の死体から肉を切り取り、それを食べるようにまで追い込まれていた。
さらには8月23日(9月16日とも)、毛利方からの補給兵糧を運んでいた毛利水軍が千代川河口において、信長の命を受けて赴いた細川藤孝配下・松井康之の軍勢に攻め破られたことにより、城中の兵糧は絶望的となったのである。はじめ経家は、冬まで持ちこたえることができれば秀吉軍は囲みを解いて帰るに違いないと考えていた。しかし、頼みの糧道を寸断され、その冬まで城中の兵糧が持たなかったのである。
毛利氏もこの状況を傍観していたわけではない。鳥取城を支援するための糧道を切り開くため、吉川元長率いる軍勢を山陰方面の出雲国から伯耆国へと向けて派遣したが、織田方の南条元続・小鴨元清らの守る羽衣石城で足止めされてしまい、これを落とすことができずに阻まれていた。また山陽方面においても織田勢の攻勢が活発であり、毛利輝元や小早川隆景らがこれに対応するために釘づけにされていたのである。
万策尽きた経家は家臣の野田春実を秀吉の陣所に送り、自身の切腹と引き換えに城兵の助命を要請した。
はじめ秀吉は、一度は降った鳥取城が再び敵対することになった根源は中村・森下の2人にある、として経家は殺さずに中村・森下らに責任を取らせようと考えていたようだが、経家の固い決心を翻させることはできなかった。10月25日、経家は秀吉から届けられた、城兵を全て助命することを保証する旨の誓書を確認したうえで自刃した。
なお、その前日の24日の夜に森下・中村・塩冶・奈佐らが、各々の持ち場で自刃していた。
こうして百日余に及ぶ鳥取城の籠城戦は終結したのである。
この鳥取城の戦いは、織田氏と毛利氏の抗争における重要な意味を成した。毛利氏にとっては天正8年(1580)の三木開城に続き、東進の拠点を失ったことになり、織田氏においては中国地方侵攻への門を大きく広げることになったのである。