三木(みき)城の戦い

織田信長から中国経略の命を受けた羽柴秀吉 は、天正5年(1577)10月、黒田孝高の案内で播磨国に入って姫路城を根拠地とし、対毛利戦略を練ることになった。
天正6年(1578)2月、一度は味方につけた播磨国三木城主・別所長治がはっきりと毛利方になったことにより、秀吉の当面の標的は三木城に絞られることになったのである。

長治は中国地方の最大勢力である毛利氏や東播磨の諸城主と連絡を取りつつ反秀吉の姿勢を明らかにし、三木城を修築して対決の意向を示した。
3月、秀吉は三木城攻撃を試みるが、この城は美嚢川に張り出した台地の上の要害を利用した堅城であり、それに加えて周囲の淡河(おうご)・神吉(かんき)・志方・高砂・野口などの有力な支城が攻撃軍を牽制するという防衛体制が確立しており、一息に攻撃を仕掛けることができない。秀吉はまず、三木城を守る支城の攻略に乗り出した。
書写山円教寺の十地坊に本陣と定め、4月3日には長井政重の守る野口城を降した秀吉だったが、その後に毛利勢が上月城を攻め始めた。これを受けて5月早々には上月城の救援に赴くことになる(上月城の戦い)。この間の三木城攻略の任務は信長より派遣された織田信忠佐久間信盛滝川一益丹羽長秀明智光秀細川藤孝らの応援軍に委ねられることになる。しかしこの応援軍も支城の攻撃に徹するばかりであった。
一方、上月城の救出に向かった秀吉だが、敵の毛利勢も大軍であったために迂闊に攻撃を仕掛けるわけにもいかず、ただ陣を構えて対峙するのみであった。結局は2ヶ月に近い日数を空費した挙句に上月城の救援を断念し、三木城攻めの陣場に戻って、6月29日より三木城攻略を再開することになる。

応援軍と合流した秀吉はまず城下を焼き、城の周りに監視のための砦や番所を置き、堀・柵・逆茂木をびっしりと張りめぐらせて、蟻の這い出る隙もないように包囲したのである。そして自らは三木城に相対する平井山に本陣を移し、兵糧攻めの作戦を取った。それと並行して、三木城と連絡を取り合う30ほどの支城を各個撃破していくことにしたのである。
この分断作戦は顕著な効果を表し、7月20日には神吉頼定の守る神吉城を力攻めにて降し、その数日後には櫛橋伊定の志方城が降参、8月には衣笠範景の端谷城、9月には魚住城、10月には高砂城が陥落する。三木城を取り巻く情勢は日に日に苦しくなっていった。
この劣勢を覆すべく、城方も攻勢に出る。10月22日、長治の弟・別所定治と叔父・別所吉親(賀相)が2千5百の軍勢を率い、秀吉本陣の平井山に向けて出陣した。しかし秀吉勢は羽柴秀長隊の活躍などもあって、これを撃退している。この戦いで定治が討死を遂げた。
天正7年(1579)2月6日には再び籠城中の兵3千2百(2千5百とも)余がいきなり城外に打って出て、荒木村重方の花隈城や毛利氏との連絡を確保しようとしたが、かえって秀吉の軍勢によって迎撃されてしまい、ようやく丹生山の頂上にあった明要寺(海蔵寺とも)を城塞化、淡河城との間の連絡をつけるに留まった。しかしのちには秀吉はこの丹生山の要害、淡河城をも攻め、三木城への兵糧補給を断っている。既にこの段階では秀吉軍の方から攻撃を仕掛けることなく包囲体制の堅持に徹し、城から打って出てくる城兵を叩く程度であった。
別所氏の後ろ盾となっている毛利氏は他の地域でも織田勢と戦わねばならない状況にあって、三木城を救出するために大軍を派遣することができない状態であった。
この年の9月、毛利氏は軍船を仕立てて三木城に兵糧輸送を試みたが、平田・大村の辺りで秀吉軍の迎撃にあって失敗している。これによって三木城への兵糧輸送の望みは完全に断たれたのである。
10月頃より包囲網をしだいに狭め、夜間にも白昼の如く篝火を焚き、厳重な包囲体制は揺るぐことがなかった。

そして籠城戦のまま天正8年(1580)となった。既に城内の兵糧も尽き、三木城を襲った飢餓地獄は牛馬・鶏犬を食べてもまだ足りず、人の肉を喰らうことさえあったという。
城兵の士気が衰えてきたことを見て取った秀吉は、ついに1月6日に総攻撃を命じた。
まず、長治の弟・別所知之(友之)の籠もる宮の上砦を攻め落とし、平山丸・東の丸・二の丸・中嶋丸新城を占拠、翌7日より本丸への攻撃を開始。11日には別所吉親の守る鷹尾山城を攻めた。吉親は城を支えることができず、脱出して長治に合流した。そしてとうとう三木城も落城寸前という事態に陥る。
長期間に亘って満足な食事のできなかった別所勢は衰弱しきっており、戦いにならなかったという。
長治の一族で、当時、秀吉方にあった別所長棟は、これ以上城兵に犠牲が出るのを何とかくい止めたいと考え、長治への開城勧告を申し送っている。そして15日に至り、長治もこれ以上の交戦は無理と判断し、ついに降伏開城を申し出たのである。
降伏の条件は長治・知之・吉親の切腹と引き換えに、3千ほど残っていた城兵の命を助けるというものであった。
1月16日に城中で別れの宴があり、17日、長治以下一族が自刃することによって、この1年半にも及ぶ長い戦いは終わったのである。