八尾(やお)若江(わかえ)の合戦

慶長19年(1614)の大坂冬の陣の講和において、徳川家康豊臣秀頼の拠る大坂城の惣構えを懐平して無効化することに成功した。そのうえで再び圧迫して再戦に持ち込んだのである(大坂夏の陣)。つまり冬の陣に際して結ばれた和議は戦略的に想定されていたものであり、事は家康の思惑通りに運ばれたのであった。
慶長20年(=元和元年:1615)4月、京都に集結させた15万の兵を率いて大坂城攻めに臨んだ家康は、軍勢を大和方面軍と河内方面軍の二手に分けて進撃させた。
一方、この動きを察知した大坂方も迎撃に出る。

徳川方の河内方面軍を迎撃する任にあたったのは、長宗我部盛親隊5千と木村重成隊4千7百である。
5月6日、この両隊が布陣したのは大坂城から南東8キロほどの八尾・若江である。この地は長瀬川と玉櫛川に挟まれた低湿地の水田地帯で大軍を動かすには不適な場所であり、大坂方はこの難所に敵の軍勢を誘い込んで討ち取る意図で、この日の未明より発生した濃霧に紛れて布陣し、待ち構えていたのであった。
戦いは夜明けとともに始まり、正午頃まで八尾の長宗我部隊5千と藤堂高虎隊5千の兵が、若江では木村隊4千7百が井伊直孝隊3千2百と相対して戦った。
八尾戦線では、地の利を知る長宗我部隊が、深い朝靄に不意を衝かれた藤堂隊を圧倒し、高虎の一族を含む武将6人以下3百人ほどを討ち取って優勢に戦いを進めた。
一方の若江戦線では、地勢の不利を説く老臣の意見をねじ伏せた直孝が、木村隊へ正面からの突撃を敢行。この猛攻の前に、数で勝るはずの木村隊は打ち破られ、大将の重成が討ち取られると木村隊は壊滅した。
この重成敗死の報に接すると、長宗我部隊は孤立することを危惧し、大坂城に兵を返したのであった。

この戦いで、藤堂隊は5百八十余の首級をあげたが3百余を失い、井伊隊では3百余を討ち取って百余名が戦死した。
どの隊も深手を負うことになったが藤堂隊の損耗はことさら激しく、このため高虎は総大将の家康や徳川秀忠に明日の先鋒を免ぜられるように願い出るほどであったという。