小野寺輝道(別称を景道)の子。母は大宝寺義増の娘。孫十郎・弥七郎・綱元と称す。従五位下・遠江守。
小野寺氏の最盛期を築き上げた父・輝道の跡を受けて出羽国の仙北・平鹿・雄勝の3郡を領して平鹿郡横手城に拠ったが、近隣の最上・戸沢・安東ら諸氏との争いに敗れて所領を蚕食され、雄勝・平鹿の180余郷を失った。
家臣団の統制に苦しみ、隙を突いて侵入を図る最上勢に度々領国を脅かされたが、天正19年(1591)1月に羽柴秀吉から本領として3万1千6百石を安堵された。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役に際しては肥前国名護屋に在陣。
文禄4年(1595)暮れ頃より雄勝郡の所領のことで最上義光と紛争を起こし、再び激しく戦った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては、はじめ最上氏と共に東軍に属して会津上杉征伐に出陣したが、上杉征伐軍の主力が畿内へと転じたために最上氏が孤立すると、義光への宿怨から上杉景勝に与して最上領の雄勝郡合川城を攻略した。しかし東軍勢に攻められて降伏、翌年(1601)に改易となり石見国津和野へ追放された。
正保2年(1645)11月22日、同地の配所で没した。