南部信直(なんぶ・のぶなお) 1546〜1599

南部氏支族・石川高信の長子。通称は田子九郎。大膳大夫。
はじめ陸奥国糠部郡三戸の田子城にあったが、永禄8年(1565)頃に南部氏第24代当主・南部晴政の養子となって晴政の長女を妻とし、天正10年(1582)に南部氏惣領の家督を相続した。
この家督相続には複雑な経緯があった。南部氏24代の晴政には男児がなく、長女の婿であった信直が継嗣の候補者と目されていたが、そこへ晴政に嫡男・鶴千代が誕生したのである。晴政はこの鶴千代に家督を継がせたくなり、信直を殺害しようとしたとされている。このような事情や妻が死没したことなどを受けて、結局は信直が惣領継承を辞退、元亀3年(1572)頃に田子城に戻ったことで決着したかのように見えた。
のち、成長した鶴千代が晴継と名乗って第25代の惣領候補筆頭となるのだが、天正10年1月4日に晴政が没すると、その20日後に晴継も父のあとを追うように死んでしまったのである。年は13歳だったという(ただし、晴政・晴継の死没時期については異説もある)。これにより再び後継問題が起こり、晴政の二女を妻としていた九戸実親と抗争となったが、北信愛南部(八戸)政栄ら一族・重臣らの助力を得て南部氏惣領を後継した。
信直が家督を継承した頃の勢力範囲は、陸奥国の糠部郡を中心として宇曾利・外浜・津軽・鹿角・岩手・久慈・閉伊と広大であったが、九戸・七戸・一戸ら重臣の動きにも油断ができず、惣領としての支配体制や領内の掌握は不完全であった。
しかし信直は時代の趨勢を的確に見極めることに敏で、天正14年(1586)より前田利家を通じて羽柴秀吉に接近を図り、18年(1590)には津軽の大浦為信(津軽為信)、秋田の秋田実季、同族の九戸政実らとの激しい対立の中にあった4月、秀吉からの命に応じて小田原征伐に参陣、7月の奥州仕置の際に秀吉から本領を安堵された。
天正18年10月の葛西・大崎一揆をはじめ和賀・稗貫の一揆、更には九戸政実の乱が起こると19年(1591)5月に上京、情勢を報告し、豊臣秀次を大将とする討伐軍を迎え、鎮定に成功した。この九戸の乱においては、信直は「この地は既に天下の土地である」として、つまりは「秀吉に依託された管理者」としての政治認識のもとに私兵を動かさず、羽柴秀吉に討伐軍を要請したという。
乱後、津軽為信に給された津軽3郡の替地として和賀・稗貫(ひえぬき)・志和の3郡を与えられて10万石。11月には子の利直と共に上洛、秀吉に謝している。また、九戸城を福岡城と改めて三戸城から移った。
天正20年(=文禄元年:1592)に秀吉の朝鮮派兵(文禄の役)の命により士卒1千余人を率いて肥前国名護屋に参陣。渡海したかについては、両説あって不詳である。文禄3年(1594)に帰領している。
その間に領内の諸城を破却、領内支配の拠点として岩手郡不来方に築城を開始した。不来方(のち盛岡に改称)城が完成するのは慶長4年(1599)である。
同年10月5日、福岡城で病没した。54歳。法名は住法院殿(常住院殿)江山心公大居士。