戸次川(へつぎがわ)の合戦

上洛した大友宗麟は天正14年(1586)4月5日、大坂の羽柴秀吉に謁し、九州全土を席捲せんばかりの勢いを誇る島津勢が大友氏本拠の豊後国に侵入したことを伝えて救援を求めた。日本の統一を目論む秀吉としても、島津氏が九州を蚕食する勢いにあることを快からず思っていたところもあったので、この宗麟の申し出を了承したのである。

秀吉は黒田孝高に毛利軍を率いて先発させ、さらに四国勢として、讃岐国の仙石秀久十河存保を軍監に、前年に降伏したばかりの長宗我部元親らが加えられた。四国勢の兵力は仙石・十河隊が3千、長宗我部隊も3千の6千人である。四国勢は伊予灘から豊後水道を渡り、別府湾から大友宗麟の待つ府内城に入った。
2万ともいわれる大軍の島津勢はこれらの動きを見て、島津家久率いる本隊が日向国より進軍を始めた。それに合わせて島津義弘隊も豊後方面から合流しようとする動きを見せる。
宗麟を支援する秀吉軍と島津軍が豊後国各地で火花を散らす形になったが、中でも鶴賀城をめぐる攻防戦が両軍の主戦場となり、11月25日から戦いとなった。
鶴賀城は大友氏の本城・府内城の前衛を果たす城で、臼杵方面への入口を扼する軍事上の要地だった。城主の利光鑑教(宗魚)はすでに戦死していたが、残された城兵たちは島津勢の猛攻に耐え続けていた。
秀久・元親らはこの鶴賀城を救うべく戸次川畔に布陣。その到着を知って、鶴賀城を包囲していた島津家久の軍勢が囲みを解いて坂原山に退いたことから、軍議の席で秀久が家久軍を追撃することを強く主張。十河存保もこれに同意した。しかし長宗我部元親だけは伏兵があることを懸念し、秀吉本隊の到着を待つべし、と反対意見を述べたが軍監である仙石秀久の持論に従うよりほかなかった。
この豊後出陣に先立ち、秀久は秀吉より「命令のあるまで待機せよ」との命令を受けていたという。戦術に長けた秀吉と元親の見解は一致していたわけだが、秀久は譲らず、強引に渡河作戦を決めてしまったのである。

12月12日、秀久の命令を受け、四国勢は戸次川の渡河にかかった。長宗我部信親が1千人の兵を従えて竹中の渡しを渡り、そのあとに5千の兵が続く。万一の場合を考慮して、大友義統が予備隊となり、中津留河原に留まった。
夕刻に渡河を終えた四国勢に、島津の兵2百ばかりが襲いかかった。しかし少数の兵では打撃も与えることもできず、即座に退却にかかる。四国勢が追撃すべく兵を動かしたが、このとき既に島津勢の術中に陥っていた。身を隠していた島津勢の鉄砲隊の銃口が一斉に火を噴いたのである。
この伏兵の攻撃に、四国勢は浮き足立った。統制の乱れた四国勢にさらに追い打ちをかけるべく、島津方の伊集院隊3千・新納隊3千の騎馬隊が突撃を敢行。これによって四国勢は分断され、苦しい戦いを演じることになった。
とくに長宗我部信親隊は島津家久率いる本隊8千の攻撃を受け、中津留河原まで退いて獅子奮迅の働きを見せたが、島津勢の包囲攻撃の前に長く支えることができず、ついには討死を遂げた。
予備隊として控えていたはずの大友義統は、味方の救援に向かおうともせず、我先にと高崎城へと退却、さらに豊前国宇佐郡の竜王城にまで逃れた。
他の四国勢も背後に川を背負っていることから退路もなく、散々に打ち破られて壊滅した。長宗我部元親は辛くも戦場を脱出、沖ノ浜から舟に乗って伊予国の日振島まで逃れた。
十河存保は、信親と共に戦死。仙石秀久は壊滅する軍勢を見捨てて小倉城まで逃れるというありさまだった。
救援の望みを断たれた鶴賀城も陥落した。

12月12日の夕刻から13日朝にかけての野戦であった。この戦術は島津勢が得意とする「釣野伏(つりのぶせ)」と呼ばれるもので、少数の兵で敗走を装って敵勢を釣り出し、そこを伏せていた兵で包囲殲滅させるという、一種の陽動作戦である。元亀3年(1572)の木崎原の合戦においてもこの戦術で勝利している。