安芸元泰の子。備後守。安芸氏は蘇我赤兄の流れを汲むといわれる名族で、安芸七守護のひとり。土佐国安芸郡安芸城主。
一条氏の女を妻とした。
代々土佐東部にその武威を誇り、安芸郡の大領を相伝していたが、長岡郡岡豊城に拠る長宗我部氏の台頭により、長宗我部元親と争った。
天文13年(1544)に父・元泰が没したとき、国虎はまだ4歳だったといわれ、同族の後見を受けた。当主として活動を始めるのは弘治3年(1557)頃のことである。
近隣の和食氏や香宗我部氏を圧迫し、勢力拡大を目論む。永禄6年(1563)、元親が長岡郡の本山氏と争っている際、幡多郡の一条氏の援軍を得て岡豊城を攻めるも失敗する。
この抗争は一条兼定の和睦斡旋によって一応は小康を得るが、永禄12年(1569)4月、元親からの岡豊城への招請を謀略と見て断ったことから再び関係が悪化し、7月より決戦に至った。
この戦いで安芸勢は侵攻してきた長宗我部勢を矢流山で迎撃するが、敗走。その後は安芸城に籠もって防戦を試みたが、敗色が濃くなるとともに城内から内応者が出はじめた。8月11日には長宗我部軍の総攻撃を受け、ここに安芸城は落城した(安芸城の戦い)。国虎は城兵の助命を条件に、菩提寺浄真寺にて自刃したのである。